記憶のかけら
熊笹
「まだなのか?」
提灯を持つ男が聞く。
この辺でいいだろう、西宮は思う。
「どこにも家なんか見えないぞ」
男が気色ばんで言う。
このあたりに農家などないわ。
あったとしても誰が案内するか。
西宮は無言で、
相手の位置と自分の居場所を確認する。
相手が一人なら、
手を縛られただけなら、
絶対負けはしない。
あたりの地形は知り尽くしている。
起伏や沢の水音で、
目を瞑っていても場所がわかる。
足元は熊笹で覆れて見えにくいが、
間違いなく岩が重なり不安定にせり出している。
その下は断崖になっているはずだ。
違うとしても、確信するしかない。
西宮は男に思いっきり体当たりをした。
不意を食らい、
男は西宮の身体を必死で掴もうとしたが、
空気を掴むだけで、指も腕も空中で揺れている。
西宮の足が、木の根に躓づき
袴が枝に引っ掛かる。
間一髪、一緒に落ちて行きそうな身体を、
全身の力で捻って、男を振り払う。
男は悲鳴を上げて、崖下に落ちて行った。
ただ事ではない様子に、馬は逃げてしまった。
右肩を岩にぶつけた西宮。
肩から血がにじみだす。
ッ!
怪我をしたか… 座り込む。
両腕を縛る紐を鋭い岩角で切りながら、
荒い呼吸の西宮は考えていた。
屋敷の者は、きっと我々を探しているはず。
こめかみを怪我をしたのは、不本意だ。悔しい。
自分の判断が間違いだったのか、油断したのか。
助かったのは、運が良かっただけだ。
馬を使わず、夜道を女連れで逃げることが可能か?
不可能でも、やるしかない。
いろんな考えが頭をよぎる。
持てる力を振り絞り、立ち上がる西宮。
肩の血染めが広がっていく。
残るは二人。
この身体で戦えるのか?
真由美殿は大丈夫だろうか。
どうか、待っていてくれ。
無事でいてくれ。
息が整うのも待たず、走りだしていた。