水竜幻想
タッタッタッ。小気味良い音をさせながら、常葉は雑巾がけをしていた。
冬の簀子から始め、右へ左へ往復し、秋から夏へと季節を遡る。

夏木立を臨みながら勾欄の手摺りを拭いていると、薫る風の中に笛の音が混じるのが聞こえて耳を澄ます。それを辿ってゆくと、春の庭に面した簀子に腰をおろし竜笛を吹く竜神をみつけた。

初めて耳にする曲だった。
ゆったりと穏やかに、ときに荒々しさをみせる音色は、姿を自在に変える水のように澄んでいる。典雅な音が流れをつくり、竜となって天へと昇っていく神々しい様が、常葉の目に浮かんだ。

聴き入る常葉は、邪魔をしないように廂の几帳の陰に隠れているつもりでいたが、竜神は手を止めてしまった。

「そのようなところでなにをしておる」

妙なる音を生み出していた口が、不機嫌な声を奏でた。

「笛を聴いておりました」

慌ててからげていた裾を直し、余韻の覚めぬまま答えるが、竜神の答えは素っ気ない。

「そうか」

笛を懐にしまい立ち去ろうとした竜神が、すれ違い様に、常葉の左の二の腕を掴んだ。

「これはどうした」

「ちょうどいい端切れがみつからなかったので」 

右手のぼろ布を握りしめる。継ぎはぎだらけの片袖を解き、雑巾の代わりとしていたのだ。
眉をひそめた竜神は、下衣が露わになった常葉の片腕を少々乱暴に引く。

「ついて参れ」

腕を取られたまま、常葉は竜神の後を歩いた。

御簾をくぐり、幾基もの几帳を越え行き着いたのは、仄暗い塗籠だ。
明かり取りから差し込む光に、目にも鮮やかな綾錦が浮かび上がる。

「どれでも要るだけ持っていけ」

「これを掃除に使えとおっしゃるのですか!? もったいない!」

触れるのさえ気後れする衣で、床磨きなどできようはずがない。

「それでもかまわないが……」

ふるふると首を振る常葉をうろんな目つきで一瞥した竜神は、たくさんの衣裳の中から一枚を手にすると放ってよこした。
それは宙でふわりと広がり、常葉を覆う。

「片袖のない衣ではしかたがなかろう。ああ、それから――」

小袖に隠れた常盤の肩に手が置かれ、視界を奪われた耳に口が寄せられる。

「衣をあらためる前に湯を使え。顔が泥だらけだ」

「え?」

衣の下で顔を拭うが、その袖も薄汚れていた。
< 10 / 29 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop