水竜幻想
闇夜の庭にはらはらと舞うのは、雪だろうか。それとも、春の訪れを告げる香りを放つ梅の花弁か。

手をかざした火桶の熱は、爪の先まで凍えていた常葉を、溶かすようにじんわりと温める。

「あの日の……滝壺に落ちた日の翌日。里に人買いが来る予定でした」

火桶を挟んで座す竜神に、常葉は己の身の上を語り始めた。

「今年の梅雨は、いつになく雨が多く苗の育ちが思わしくありませんでした。そこへきて三度もの大嵐に見舞われた里の田畑は、すべてを駄目にされてしまったのです。そのうえ、流された橋の普請に駆り出されていた父が山津波に遭い……」

常葉の家には、数年前より体調を崩しがちな母、家を背負うにはまだ幼い弟と妹が遺されたのだ。

秋を目前にしても田畑からの収穫が望めない。その日の食にも事欠く状態で、お上に租の減免を訴えても聞き届けられることはなく、一家は途方に暮れた。

近隣の集落はどこも似たような状況らしく、足元を見た人買いがあちこちの里を回っているとの噂が届いたのは、そんなときだった。

「皆が冬を越すには、この身を売るしか方法がありませんでした」

このまま里にいても厳しい冬と飢えが待つのみ。常葉は家族のために覚悟を決める。

「最後にあの滝を目に焼き付けておきたくて山に入り――竜胆をみつけました」

四季折々に美しい姿を魅せる山奥の滝。そのほとりに立ったときに感じる、すべてを包みこんで浄化してくれるように清涼な気が好きだった。

そして、ここは――竜神の傍はその気で満ちている。

「売られた先では、生き地獄をみると耳にしました。生きるための道を選んでも、死ぬより辛い思いをするかもしれない。わたしはそれが怖くなったのです」

死にたかったのではない。「生きる」ために、ここに残りたかった。
だがそれは、家族を見捨てることと同意である。
常に罪悪感を抱えながらも、常葉は里に戻る決心がつかなかった。

「ここは噂に聞く極楽なのでしょうか」

尋ねておいて、自嘲の笑みをもらす。

そこは衣食に満ち足りた、常春のごとき国だという。

「わたしのような不孝者が行ける場所ではありませんね。竜神さまを謀りました」

炭火で温かくなった手で足首をさする。痛みなど、初めての夜が明けたときには消えていた。そのことはきっと、竜神も気づいていたに違いない。
それでも常葉がここに留まることを許してくれた。
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