水竜幻想
「里を出る」

日がな一日、空を見上げてはため息をついてばかりいる常葉がそう告げたとき、弟はほっとしたような表情を浮かべた。

人里から離れた山中にある小さな古寺に、常葉は隠れるように身を寄せる。
父母の菩提を弔い、消息の途絶えた妹の無事を願って経を唱える日々。雑事を手伝う傍ら、なにも訊かずに常葉を受け入れてくれた老尼僧から、文字なども教えてもらうことができた。
 
この期に及んで、徳を積み犯した業から逃れようなどという考えはない。
水面に顔を映しては、痣を愛おしげに撫で続ける。
ただただ、来世は孤独な竜神の側近くに存在できることを望んで……。

歳を重ねるごとに、鱗は一枚、また一枚と数を減らす。張りのあった肌は弛んで皺が刻まれ、緑の黒髪が総白髪に変わるころには、僅かに頬に残るのみとなっていた。
 
 * * *

山の木々が色付き、やがてそれを白銀が覆う。
雪解け水が地を潤すと、新芽が顔を現し始める。
山肌を撫でおろす風に混じる山桜の薄紅が、蝉時雨へと変わってゆく。
 
それを幾度繰り返しただろうか。枯れ滝にまた、桜の季節が巡ってきた。
 
古ぼけた堂の傍ら、かろうじて緑色とわかるぼろ布の下から小さな若芽が顔を出す。
山の鳥たちが囀りを止め一斉に飛び立った。

水滴が岩壁を伝ってぽたりぽたりと滝壺へ落ち、ひび割れた底の茶色を濃くしていく。徐々にそれは広がりをみせ、ほどなく落水の轟音と清水の香が辺りを包んだ。

流れ落ちる水からの飛沫が新芽を潤す。
生まれたばかりの常磐木は、針のような葉を天に向けて伸ばしていった。

――春山に竜笛が鳴り渡る……


【水竜恋慕 完】
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