水竜幻想
「こ、これは……?」

目の毒になりそうなご馳走を前にして、瞬きさえ忘れて魅入ってしまう。
ハルが最後に口にしたのは、輿に乗る前。里長の細君が作ってくれた、少し塩気のある小さな握り飯一つ。それとて里の倉に僅かに残った貴重な正月用の米を使い、せめてもの手向けにと饗してくれたものだった。

ごくりと生唾を飲み込む音が、常葉に聞こえてしまったのではと心配になる。

「お好きなものがわかりませんでしたので、思いつく限りご用意してみたのですが、お嫌いなものがございまして?」

ハルの杞憂を無視して、常葉は彼を膳の真正面の円座に座らせると、飯椀に山盛りの飯をよそう。

「どうぞ、たくさん召し上がってくださいね。お代りもございますよ」

鼻先に差し出された芳しい炊きたての米の匂いに、もう我慢ができなくなった。
一口、口に運べば、あとはもう流れ作業のように、料理がハルの腹の中に収まっていく。きっと素晴らしい味なのだろうが、それもろくに感じる余裕もなく空腹を満たしていった。

そんなハルを微笑ましげに眺めていた常葉がさっと退いたかと思うと、妻戸が乱暴に開けられる。
竜神が大股でやって来て、ほとんど空になった皿を確認し満足げに頷くと、何も言わずに去ってしまった。

贄である自分にこんなに豪華な食事を摂らせて、竜神はどうするのだろう。
丸く膨れた腹を撫で、気がついた。太らせてから食べるつもりなのではないだろうか。

そう思い始めると、それから朝に晩に用意される食事の時間は複雑だ。
だが、目の前に並ぶ美食の数々を拒めるはずもなく。日に日にハルの血色は艶やかになり、伸びやかな肢体を取り戻していった。


優遇されたのは食事だけではない。

あてがわれた局に、笛を手にふらりと訪れた竜神が澄んだ音色を披露し、そのうえ手解きまでしてくれる。
手持ち無沙汰に手伝いを申し入れたハルに、常葉は読み書きを教えてくれ、竜神からだと書物もたくさん与えられた。

どれもこれもが里での生活とは縁遠かったものばかりで、初めのうちは戸惑い苦戦していたハルだったが、次第に学ぶ事の楽しさがそれを上回っていった。

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