水竜幻想
目を瞑り、振り落とされないよう硬い鬣を握るハルを乗せ、竜は幾層もの雲を抜けていく。
しばらく続いていた垂直に近い状態がふいに水平になり、頬を殴りつけるようだった風が緩やかなものへと変わった。
『しかと見るが良い』
促され、ハルは恐る恐る瞼を開ける。
「これは……」
遥か眼下に小さな堂が見える。あの山の滝だった。
それはハルが最後に見た枯れ果てた姿ではなく、轟々という音が聞こえそうなほどの水量を滝壺に落とし、深い緑の森に中を清らかな水が山裾へ向かって流れている。
その川を下るように竜は空を泳ぐ。太くなっていく流れに沿って作られた田には、どこまでも続く黄金色の穂が頭を垂れて風に揺れている。
ハルが夢にまで見た光景だった。
「あぁ。ありがとうございます。やはり竜神様は、お約束を守ってくださっていたのですね」
ここへ来てからずっと肩の上にのしかかっていたものが、やっと外れたように心が軽くなる。水鏡のように凪いだ気持ちでハルは竜神に告げた。
「これで安心して竜神様に召し上がっていただけます。あっ! でも、できれば最期にもう少し下がって、里の皆が元気に暮らしているかをひと目見せてはいただけませんでしょうか」
無邪気に頼むハルの言葉に、竜が緩やかに首を振った。
『吾は人は喰わぬと再三申しただろうが。それに、あの里におぬしの知るものはもういない。おぬしが《《死んで》》から、人の世ではすでに百年近くの時が流れておるのだ』
「なにを、仰って……」
季節の移ろいがわからぬ屋敷とはいえ、ハルにそれほどの長い年月をここで過ごした感覚はない。
それに、自分が『死んで』いる?
『すでに事切れ、魂魄が離れて彷徨いかけていたおぬしを、吾が繋ぎ留めたのだ。今は輪廻の枠から外れてここにおるが、いずれその刻がくれば流れに戻る事になるだろう』
「……そう、でしたか」
いままで普通に食事をし睡眠を摂っていた自分の手を見詰める。これがこの世のものではないという実感が、ハルには全く湧いてこなかった。
それに、鬣を握る手の甲に次から次へと落ちてくる水滴は何なのだろう。死人も涙を流せるというのだろうか。
「俺は、これからどうしたら良いのでしょう」
相変わらず、竜神にはハルを食べるつもりはなさそうだ。
知人も身体も失くした自分には、帰る里もない。
『言ったであろう。その刻が訪れるまではここにおれば良い、と』
竜の声が心の耳に届いたとたん、ハルは硬い鱗の背に突っ伏す。目覚めた時に嗅いだあの清涼な香りがハルを包んだ。
その匂いを胸一杯にに吸い込むと、ハルは竜の背にしがみつき、声を上げて泣きじゃくった。
しばらく続いていた垂直に近い状態がふいに水平になり、頬を殴りつけるようだった風が緩やかなものへと変わった。
『しかと見るが良い』
促され、ハルは恐る恐る瞼を開ける。
「これは……」
遥か眼下に小さな堂が見える。あの山の滝だった。
それはハルが最後に見た枯れ果てた姿ではなく、轟々という音が聞こえそうなほどの水量を滝壺に落とし、深い緑の森に中を清らかな水が山裾へ向かって流れている。
その川を下るように竜は空を泳ぐ。太くなっていく流れに沿って作られた田には、どこまでも続く黄金色の穂が頭を垂れて風に揺れている。
ハルが夢にまで見た光景だった。
「あぁ。ありがとうございます。やはり竜神様は、お約束を守ってくださっていたのですね」
ここへ来てからずっと肩の上にのしかかっていたものが、やっと外れたように心が軽くなる。水鏡のように凪いだ気持ちでハルは竜神に告げた。
「これで安心して竜神様に召し上がっていただけます。あっ! でも、できれば最期にもう少し下がって、里の皆が元気に暮らしているかをひと目見せてはいただけませんでしょうか」
無邪気に頼むハルの言葉に、竜が緩やかに首を振った。
『吾は人は喰わぬと再三申しただろうが。それに、あの里におぬしの知るものはもういない。おぬしが《《死んで》》から、人の世ではすでに百年近くの時が流れておるのだ』
「なにを、仰って……」
季節の移ろいがわからぬ屋敷とはいえ、ハルにそれほどの長い年月をここで過ごした感覚はない。
それに、自分が『死んで』いる?
『すでに事切れ、魂魄が離れて彷徨いかけていたおぬしを、吾が繋ぎ留めたのだ。今は輪廻の枠から外れてここにおるが、いずれその刻がくれば流れに戻る事になるだろう』
「……そう、でしたか」
いままで普通に食事をし睡眠を摂っていた自分の手を見詰める。これがこの世のものではないという実感が、ハルには全く湧いてこなかった。
それに、鬣を握る手の甲に次から次へと落ちてくる水滴は何なのだろう。死人も涙を流せるというのだろうか。
「俺は、これからどうしたら良いのでしょう」
相変わらず、竜神にはハルを食べるつもりはなさそうだ。
知人も身体も失くした自分には、帰る里もない。
『言ったであろう。その刻が訪れるまではここにおれば良い、と』
竜の声が心の耳に届いたとたん、ハルは硬い鱗の背に突っ伏す。目覚めた時に嗅いだあの清涼な香りがハルを包んだ。
その匂いを胸一杯にに吸い込むと、ハルは竜の背にしがみつき、声を上げて泣きじゃくった。