水竜幻想
のしかかっていた大きな身体が、常葉の上から退く。

とたんに肺腑の奥にまで空気がなだれ込む。常葉は肩を荒く上下させ、息を身体中に送った。

「死に、たくなんか……ない」

ふらつきながらも起き上がり、光の戻った眼で訴える。

竜神は頬に走った紅い線を手の甲で拭って目を細めた。
息を整えている間に、常葉がつけた傷は跡形もなく消えていった。

「ならばなおさら、ここはそなたのいるべきところではない」

竜神の手が再び常葉へと伸びてくる。
とっさに目を瞑り身体を強張らせた常葉は、頭の上にかすかな重みを感じた。

その感覚は、乱れた髪に沿ってゆっくりと降りてくる。
盗み見るように薄く瞼を開けてみれば、すくい上げた一筋の髪に、竜神が顔を寄せているところだった。

「なにをっ!?」

思わず常葉が身を引くと、長い指の間をさらりと長い髪がすり抜けていく。

「いっ!」

小さな痛みを覚えた頭を押さえ、困惑と非難に揺れる瞳で竜神を見据える。
口の端をあげる竜神の手には、指に絡まった黒髪が数本取り残されていた。

「受けた苦痛に怒るだけの執着がその身にあるならば、なぜ戻りたくないと申すのだ」

髪を残したままの手を、そのまますうっと戸口へと向ける。

「さあ、そなたが生きるべき世へ帰るがよい」

竜神は再三にわたって促す。

だが常葉は膝の上に両手で拳をつくって首を振った。

「……帰れません」

「なにゆえ?」

片手を開き己の右の足首をなでる。

「足を。落ちたときに、足を傷めたようなのです。これでは山を下りることができません」

不審げな面持ちで伸ばされた竜神の手から足をかばうと、常葉は床に手をつきもう一度頭を下げた。

「お願いにございます。せめてこの足が善くなるまでの間、ここにいることをお許しください」

どのくらいそうしていただろうか。
やがて常葉の頭の先を衣の裾がかすめ、呆れたような嘆息が落とされる。

「……勝手にしろ」

「ありがとうございます!」

立ち去っていく気配が消えるまで、常葉は面を伏せ続けた。

< 6 / 29 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop