水竜幻想
下敷きにしていた袿を衣架にかける。あらためてみても、紅梅色の衣は上等の品だ。

うっとり眺めていた常葉の視界を小さな薄紅がかすめる。八重梅の織紋様から散るように舞い落ちたのは、先ほどの花びらだろう。

桜にしろ梅にしろ、現在とはほど遠い季節であることに違いない。
常葉は簀子へ続く御簾をくぐった。
 
表に出てみると、白石が敷き詰められた前庭の向こうに濃い緑の木々が茂る。
その葉を揺らす清々しい風に乗って、また花びらがやってきた。
風上を目指し、簀子伝いに屋敷を回る。

角を曲がったところで、常葉の足は自然と速くなる。階から降り立った庭には、満開の山桜。

「どうして今ごろ?」

はらはらと花びらが舞う中、枝を見上げていた常葉の視界が、突然揺らいだ。

「……足はどうした」

「え?」

耳元で問う低い声は竜神のものだ。
常葉は今、その腕に抱えられていた。宙に浮く裸足の両足が目に入る。

「すみませんっ! ちゃんと洗ってから上がりますから」

「そうではない。痛めておるのだろう?」

「あ……。い、痛い……です、ちょっとだけ」

腕の中で縮こまる。それが刺激になったのか、常葉の腹の虫が盛大に鳴き声をあげた。
とたん、竜神の吹き出した息がかかる。
驚いて顔を上げると、深い水の底にいるような色をした瞳が、常葉を見下ろしていた。

「腹まで減らすようでは、殺しても死にそうもないな」

目を弓なりにし、声を出して笑う。豪快な笑い声に合わせ腕が揺れるので、小さな悲鳴をあげた常葉は思わず竜神の首にしがみつく。
するとそのまま、竜神は歩き始めてしまった。

「自分で歩けます。降ろしてくださいませ」

か細い抗議は、桜の花と広い背に流した銀色の髪を散らす風にかき消されてしまう。

その風がにわかに冷たくなってくる。
ふと目を天に向けると、白く舞うのは花びらでなく雪だ。

頬に舞い降りた六花の欠片にぶるりと震わせた常葉の身体を、竜神は寒風から守るように深く抱いた。

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