水竜幻想
季節を逆行するように、玉砂利を踏む音が雪を踏みしめるものへと変わる。
やがて竜神は小さな雑舎に入り、常葉を降ろした。

そこは厨《くりや》のようで、大きな瓶に清水がなみなみと注がれている。台の上には米に粟などの五穀がのり、酒や塩、醤も揃う。

「どれもこれも吾には不要なもの。好きなように使え」

自分で飯を炊き空腹を補え、ということらしい。
包丁の刃には一点の曇りなく、うずたかく積まれた薪を備えた竈は、一度も使われた様子がない。

「竜神さまはお食事を召し上がらないのですか」

戸口から出て行こうとする背に声をかける。

「摂らぬこともないが……」

竜神は振り返り、ぐるりとくちびるを長い舌でねぶった。その禍々しいまでの赤さに、常葉は里に語り継がれている祭祀を思い出す。

――万が一にも恵みの源である滝が枯れた際は、竜神さまに人身御供を捧げよ。

『……喰ろうてしまおうか』

脳裏に竜神の声がこだまする。息苦しさを感じた常葉の手は、無意識に自分の首をさすっていた。

そんな彼女の様子に竜神は薄ら笑いを浮かべる。

「安んじるがいい。人など生臭くて泥臭くて、とても喰えたものではないわ」

袖を翻すと、小雪の舞う外へと行ってしまった。
残された常葉は、両腕で自分の身体を抱きしめた。
真冬のような気温だけのせいだけではない寒気を追い出すため、竈に火を入れる。乾いた薪はよく燃え、冷えた手足にも温かさが戻ってくると、食欲もよみがえった。

これらの食物は供物だろうか。だがいくらかの罪悪感は、山を成す穀物の誘惑には勝てなかった。

鍋を火にかけている間、ときおり外を覗く。粒の大きくなった雪が、辺りを白く染めあげていた。
重い鈍色の空は、雪雲なのか夜が近いのかわからない。

ここでは、季節どころか刻の感覚さえ失いそうだった。 


身体が温まり、粟粥で腹がくちくなると眠気が襲う。
積もった雪が音を消す静けさの中で、常葉は薪の束にもたれかかり、心地好い眠りについた。
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