人魚のいた朝に
プロローグ
プロローグ

「昼間せんせー!」

人々が様々な速度で行き交う大学病院の中を歩いていると、弾むように明るい声が聞こえた。
この先にあるリハビリテーション科に向かっていた足を止め、声のした方を振り返ると、数週間ぶりに見る少女が、大きく手を振っていた。その傍らには、母親の姿もある。

「日菜子ちゃん、久しぶりだね」

「うん!ちょっと待っててね!」

両手でハンドリムを握り、一生懸命に僕の立つ場所までやって来る日菜子ちゃんに、ゆっくり近づく。

少し時間をかけて僕の前に辿り着いた日菜子ちゃんは、丸い目を満足そうに細めて顔を上げた。両頬には可愛らしいえくぼを出来ている。

「昼間先生、おはようございます」

「はい、おはようございます」

膝を曲げて、視線を彼女に合わせると、その頬がまた嬉しそうに緩む。

「先生、なかなか来ないから会いたかった!」

「ごめんね、少し忙しくて」

「たまには遊びに来てくれないと、日菜子つまらない」

無邪気に笑う彼女の後ろで、まだ若い母親が申し訳なさそうに僕に頭を下げる。

「そうだね。僕も出来ればもっと日菜子ちゃんたちに会いに来たいけど、大人はなかなか大変なんだ」

「研究が忙しいの?」

「そうそう」

「日菜子この前、昼間先生の研究、テレビで観たの!」

「ん?」

「あいぴー・・・ママ、なんだっけ?」

「iPS細胞よ」

「そう、それ!夕方のニュースでやっていたの!」

母親から耳打ちされた日菜子ちゃんが、誇らしげに僕を見た。

「すごいな。よくそんな難しいニュース覚えていたね」

「ただ観ていただけで、理解はしていませんよ」

日菜子ちゃんの母親が、恥ずかしそうに言葉を足す。
だけど興味を持てるだけでもすごいことだ。

「昼間先生、iPSで日菜子の脚も治るかもしれない?」

キラキラと輝く瞳で僕を見た彼女の頭を、右手で優しく撫でた。
まだ子供の、サラサラとした髪が首元で揺れる。
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