人魚のいた朝に
ルーズリーフに書かれた文字を見つめながら聞くと、窓の方に顔を向けた初空が笑った気がした。
「愛と憎しみ。幸福と絶望。朝と夜に、白と黒。未来があって過去があって、前があって後ろがある。右も左も、好きも嫌いも。うちらはいつも、何かと対になっとるでしょう?だから人魚姫も、願った幸せの分だけ、悪魔に魂を預けたの。油断したら、すぐに飲まれる」
「だからそうなる前に、泡になって消えたってこと?」
「そう。醜い感情に自分が支配される前にね」
「なるほど」
「・・・人魚は可哀想な生き物だって」
「初空のおばあちゃんが、よく言っていたね」
「うん。語り継がれる伝説は、不吉な象徴だらけよ」
この町に来た頃、初空の家に遊びに行くとよく、彼女のおばあちゃんが僕にこの町の人魚の話をしてくれた。それから、世界中の人魚に関する民話を教えてくれた。
そのほとんどが、想像していたよりも恐ろしい話で、衝撃を受けたのを今でも覚えている。
そんな人魚好きのおばあちゃんが死んだのは、僕らが高校に入学した直後だった。
亡くなる一年前から体調を崩していて、市街地にある大きな病院に入院をしていたから、初空たち家族は覚悟をしていたらしい。
だから葬儀の日も、初空は笑顔でおばあちゃんを見送っていた。
真っ赤に目を腫らしながら、必死で笑っていた。
初空が高校の「郷土研究部」に入ったのは、それからすぐだった。
いつかおばあちゃんみたいに、若狭の海に伝わる人魚伝説を、子供たちに語るのだと意気込んでいた。
だからこうして、僕のところに自作の詩を発表に来るのも、彼女の部活動の一環だったりする。郷土研究と言うよりは、人魚研究だけど。
「ねえ、青一」
「ん?」
「本当に、京都の大学に行くの?」
「・・・行くよ」
「医学部って、六年あるって知っとった?」
顔を上げることなく聞く初空に、そっと手を伸ばす。
「知らないで受験するわけないよ」
「だよね」
「たぶん大学院も行くから、もっとかかる」
高校に入学する前から、その先の進路は決めていた。
二人の兄と同じように、医学の道に進むことを。