人魚のいた朝に

三男である僕が父の病院を継ぐことはないから、家族からは好きな仕事につけばいいと言われていた。だけど、僕自身が選んだ道が、たまたま父や兄と同じ道だった。
つまりそれは、春が来る頃にはこの町を離れると言うことだ。

「夏休みとかは、帰ってくるん?」

「そのつもりだよ」

「青一のことだから、勉強に夢中になり過ぎて、この町のことなんて忘れそう」

まるで人を薄情者みたいに言う初空に苦笑いを零しながら、その髪をそっと撫でる。

「帰ってくるよ」

「どうだか」

「本当だから、信じてよ」

「・・・」

「初空に会いたいから」

彼女が思っている以上に、僕は初空のことを想っている。

「初空の居るこの町が、僕の帰る場所なんだ」

長い髪の隙間から見える耳朶が、夕焼けみたいに赤く染まる。

「好きだ」と伝えたあの日から、僕らは何も変化をしていない。
だけどそれまでみたいな「友達」ではないことは、互いに理解していた。
何かが確実に変化をしている。でも、「恋人」になることもない。
照れ隠しと言えば、それまでかもしれない。
今はまだ、この距離を心地良く思う。

「初空、帰ろうか」

「え?」

僕の声に、漸くその顔がこっちを向いた。

「でも青一、勉強は?」

「今日はもういいや」

「そうなの?」

「うん。寄り道したくなった」

「寄り道?」

立ち上がり、持ってきた参考書や筆記用具を鞄に詰めると、正面に座っていた初空の背後に回った。

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