人魚のいた朝に
「もしもし、初空?何かあった?」
「何かあらへんと、電話もしちゃダメ?」
「いや、違う。そういう意味じゃなくて」
「だったら何よ?」
「実は今から出掛けるんだ」
「出掛ける?誰と??」
「誰って言うか、バイトに」
「・・・バイト!?」
耳にあてた携帯電話から聞こえてくる彼女の声に苦笑いを浮かべながら、急いで鞄に荷物を詰め込む。
初空に会う為に帰った夏休み以来、僕らは時々こうして電話をするようになった。回数で言えば、週に一、二回。
メールを返すことをつい後回しにしてしまう僕と連絡を取るには、電話の方が早いことに気づいたと初空は言っていた。
メールの文面を考えるのも苦手な僕にとっては、ありがたいくらいの提案だ。
何よりこうして離れていても、彼女の声を聞けることが嬉しい。
「先輩に頼まれて、先週から週一で家庭教師のバイトをすることになったんだ」
「そうなの?うち、聞いてへん」
「ごめん。最近バタバタしていて、言い忘れてた」
拗ねたような声を出す彼女に正直に謝ると、「いいよ」と小さな声が返ってきた。
「青一、あんま無理せんでね」
「え?」
「だって、ただでさえ大学通い始めてからずっと忙しいのに、バイトなんて始めたら、休む時間がなくなっちゃう」
少し不貞腐れた口調に聞こえるのは、彼女なりの照れ隠し。
そんなことは、もう充分に知っている。
「ありがとう、初空。バイトと言っても、本当に短時間だから大丈夫だよ。その分貰えるお金も小遣い程度だけどね」
「でも青一は頭ええから、家庭教師は向いとるね」
「そうかな。先週初めて行った時は、何を話せばいいかわからなくて困ったよ」
なんて言ったって、僕は基本的に人見知りで、コミュニケーション能力に長けてもいない。
「青一は勉強ばかりし過ぎなんよ」
「そうだね。初空を見習わないと」
「そうそう」
楽しそうに笑う彼女の声に、身体中が癒されていく。