人魚のいた朝に
「人魚に会いに行くの!」
「人魚?」
弾む声で話す日菜子ちゃんに首を傾げると、母親がまた「すみません」と口にして話し始める。
「福井は人魚に纏わる話が多いってガイドブックで読んだんです。それから行きたいって聞かなくて」
「ああ、なるほど」
意味を理解した僕に、日菜子ちゃんが「会えるかな?」と聞くから、幼い頃を過ごしたあの町のことを考える。
「会えるかはわからないけれど、あの海はとても綺麗だから」
もう一度膝を曲げて、期待に満ちたその瞳に視線を合わせた。
「きっと、忘れられない夏休みになるよ」
「うん!」
小さな手を握りながら答えた僕に、日菜子ちゃんはまたえくぼを作って頷いた。
あの海には人魚がいる。
子供の頃によく聞かされた、海沿いの小さな町の伝説。
「じゃーね、昼間先生!」
それから日菜子ちゃんの車椅子を押しながら、母親と一緒にリハビリルームの前まで来た僕は、先生の所に行くからと告げて親子と別れた。
白く広い廊下を歩き始めた僕に、日菜子ちゃんがまた大きく手を振った。
それに応えて手を上げると、日菜子ちゃんは嬉しそうに笑った後で、ハンドリムをその小さな手でしっかりと握ると、ゆっくり背を向けて進み始めた。
脚元では、ヒラヒラとスカートの裾が揺れている。
だんだんと離れて行く車椅子の少女を見送りながら、僕はあの日の光景を思い出す。
夏の終わり、波は静かに音を立てていた。
秋の訪れを知らせる冷たい空気と、背中に触れる熱を感じながら、誰も居ない砂浜を、君を背負い歩いた日。
あの朝のことを、今もずっと忘れられずにいる。