人魚のいた朝に
「・・・そりゃあ、ガキの頃から想っとる男は、どこで何をしとるかもわからなくて、自分のことをどう想っとるのか不安になってきた時に、目の前に自分のことを好きだと言ってくれる相手が現れたら、気持ちは揺らぐだろ。しかも、良い人だ」
「・・・」
「お前は、この世界には自分と初空しかおらんと思っとるのかもしれんけど、俺らももうガキの頃とは違うからな。あの小さな町で、なんにも邪魔されずに生きとった頃とは違う。お前も初空も、もう違う世界に居場所を見つけとる。いつまでもあいつが待っといてくれると思っとったら、後悔するぞ」
僕らはもう、あの小さな町の住人ではない。
もっと広い、沢山の出逢いに溢れている、広い世界の住人であることを知ってしまった。
“会社の人と、行ったの”
彼女を海に連れて行けるのは、僕だけじゃなくなった。
彼女を幸せに出来るのは・・・
「帰る」
「え、もう!?」
「うん。用事思い出した」
財布からお札を数枚取り出してカウンターテーブルの上に置く。
「用事ってなんだよ?まだ飯も食ってへんのに」
「初空に、電話する!」
「は?」
「今から初空に電話するから、今日はもう帰る」
そう言って立ち上がった僕を、太一は驚いたように見た後で、眉を下げて笑った。
「お前はほんまに、変な奴だな」
昔と変わらない。笑うと八重歯が覗く太一に、僕は「ごめん」と謝ると、急いで店を出た。
まだ夜の九時を過ぎたばかりだから、初空も起きているはずだ。
地下にあった店を出て、階段を駆け上がりながら携帯を探す。
人と連絡を取り合うことがほとんどないせいで、せっかく機能豊富なスマホにしても、こうしていつもリュックの奥底に埋もれてしまう。
やっと見つけたそれを取り出すと、急いで初空の名前を表示させる。
先にコートを着るべきだった。
だけどそれ以上に早くその声を聞きたくて、コートを手にしたまま、駅前の駐輪所に向かう。
携帯を耳に当て、聞こえてきたコール音に心拍が速くなる。
緊張している。