人魚のいた朝に
当たり前の反応だと思う。毎日毎日、この場所に閉じ籠っている僕らでさえ、首を傾げることがあるのだから、急に説明されても理解するには無理がある。
だけど初空は、真剣に僕の話を聞いてくれた。
わからないと思いながらも、わかろうとする努力をしてくれる。
それだけで充分嬉しくて、この場所での五年が誇らしく思えた。
「そういえばね、これ持ってきたの」
「ノート?」
「うん。うちの秘密ノート」
大学の構内の片隅にあるベンチに座った僕に、初空が鞄から取り出した一冊のノートを差し出した。シンプルなグレーのA4サイズのノート。
その表紙には、黒のマジックで「人魚研究」と書かれていた。
間違えなく、彼女の字。
「見ていいの?」
「ええよ。青一は、いつも聞いてくれたから」
「人魚の話?」
「そう。うちのつまらん話」
受け取ったノートを捲る僕に、初空がそう言ってクスクス笑う。
「つまらなかったことは、一度もないよ」
「本当?」
「うん。いつも初空から聞く話は興味深いし、詩だって綺麗だ」
ノートの中には世界中の人魚に関する記事や文献が、幾つもスクラッチされている。
絵画やオペラ等の芸術作品についてまとめたページもあり、どれも見やすく整理されている。それから、彼女のおばあちゃんがしていた話も、丁寧に書かれていた。
「あんまり、じっくり見なくえええから」
「どうして?すごく面白いよ」
「そう?」
「うん。あ、コレこの前の」
水色の付箋が貼られたページを捲った僕は、すぐにそれに気づいて手を止めた。
“セイレーン”
ノートの上部に書かれたそれを、僕は二か月前に彼女から聞いた。
「この前、聞かせられへんかったから」
「それで持って来てくれたの?」
「うん。貸して」
「え?」
「読んであげるから、聞いとってね」