人魚のいた朝に
「・・・怪物かもって思っていたのに、最後は命を捧げるんだね」
「セイレーンの声には逆らえないから」
想像して顔を顰めた僕に、初空が「嫌ならオデュッセウスを見習って耳栓ね」と笑った。
ホメ―ロスか。今度、図書館に寄ったら借りてみよう。
「だけど、もともとは怪物や不吉な象徴だったはずの人魚が、いつの間にか伝説の美しい生き物として描かれるようになるって、なんか不思議だね」
初空のノートを見返しながら、そんなことを思う。
「それも、セイレーンの術中かもしれん」
「え?」
「だって、恋は盲目って言うでしょう?」
「恋?」
理解出来なくて首を傾げると、初空が車椅子を少し前に動かしてから、僕を見ることなく話し始めた。
「恋をした相手のことが、何よりも素敵に思えるのと同じで、セイレーンの声を聞いて、その虜になった人たちには、彼女たちが何よりも美しく尊い存在に映るの」
「なるほど・・・だから海の怪物だったはずのセイレーンは、いつの間にか美しい人魚に姿を変えたのか」
「まあ、うちの勝手な想像だけどね」
そう言った彼女が僕にノートを差し出すから、それを受け取ってもう一度「セイレーン」の詩を目で追った。
「初空は、詩や物語を書く才能があると思う」
「・・・え?」
「いつも、気づいたら引き込まれるんだ」
「引き込まれる?」
「うん。初空の作った世界に」
僕の言葉に目を丸くした初空が、数回の瞬きをした。
その度に揺れる睫毛の一本一本すら、僕には尊いものに思える。
「勝手な想像だとしても、本当にそうなのかもって思わせるような、魔法みたいな魅力が初空の詩からは溢れてる。こういうのって、誰でも簡単に真似出来ることじゃないよ。特別なこと」
「でも、それはただバカみたいに調べたりしたからで。みんなだって、そういうことを知ったら、色々な想像が膨らむと思う」
照れたように髪を触りながら、初空が早口で謙遜する。
「その想像を、自分以外の誰かに伝わるような形に出来るからすごいんだよ」
「・・・伝わるように」
「僕はいつも、そこで躓く」