人魚のいた朝に

「大学院に進むのを、止めようと思う」

今だと思った。
僕の人生の大きな分岐点は、今この場所だと思った。

「どうして?」

「・・・初空と、この町で暮らしたい」

「・・・」

「ずっと考えていたんだ。この前、初空に告白をしてから。これからどうしていきたいのか、これからどうするべきなのか。その答えが出たから、初空に会いに来た」

ひんやりとした風に吹かれて、微かな潮の香りがする。
まだ薄暗い海が、ゆらりゆらりと揺れている。

「僕は、来年も再来年も、初空と一緒にこの海を見たい。秋も冬も、春も夏も。初空と二人で、この海を歩きたい」

「・・・」

「ねえ、初空」

この恋の結末を、僕はもう知っていた。

「どうすれば僕を、好きになってくれる?」

涙をボロボロと零したのは、誰よりも強くて優しい彼女だった。

「青一のことが、好きで好きで大好きだから、一緒に居るのが苦しくなった」

愛の告白にしては、悲壮に満ちた彼女の言葉に、僕はただ黙ることしか出来なかった。

「青一に褒められると、すごく嬉しかったの」

言葉なんて一つも浮かんでこなくて、相槌を打つことすらも出来ない。
ただ海に向かって車椅子を押す僕に、初空は涙を何度も拭いながら言葉を続けた。

「だからあんたに会う時は、いつも綺麗なスカートを穿いた。人魚の詩も、初めて作った時に青一が褒めてくれたから、それから沢山書くようになったの。きっとみんなが知ったらバカにするような小さなことだけど、それでも青一に褒めてもらえるなら、どんな小さなことでも頑張ろうと思った。じゃないと、ただのお荷物になりそうで怖かった」

「お荷物?」

「・・・うちは、歩けへんから」

「初空」

思わず立ち止まった僕に、初空は「行こう」と諭した。

「別にええの。本当のことだから。それを嘆いたって仕方ないこともわかっとる。でもだから、歩けへんでも魅力のある人間になりたいって思った。後ろ指さす人もおるかもしれんけど、青一の目に映る自分だけは、キラキラした人間でいたいって」

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