終夜(しゅうや)
 もう、その唇が開くことは無い。
 だけど、私が好きな顔は、冷たい目をしている時の顔だった。

 この人らしい、仁らしい顔だと思っていた。
 艶の無い黒髪を眉の辺りまで垂らし、衣服はいつも、白いYシャツに黒のスラックス。
 ネクタイこそしていなかったが、姿形だけは、会社員のように見えた。

「これから先、私はどうすればいいの。」

 一緒に居ても仲良くなれず、私は家に居付かない。
 元々、家と言う場所に馴染めなかった。
 家族と言う名のグループに、私の居場所があったのか。

 終わってしまった同棲は、家族の役割を果たせたか。
 もう、言葉さえ続かない。

 加納と言う苗字も、本名かどうかは分からない。
 住んでいる場所はマンションの一室だったし、扉の前には表札すら無い。
 こんな所で、私は仁と同棲していた。

 家出をした私を保護している。仁は確かに、そう言った。
 住む場所も、生活費も与えてくれた。
 束縛もなく、制約も無い自由な生活。二人の関係は、たったそれだけ。

 だけど、私が家出をした時の動機は思い出せない。キッカケが無いのだ。
 家族が居たのかどうか、それすら分からないのだから、家出するキッカケを思い出せるはずがない。

「ここに居続ければ、いいよ。」

 久しぶりに、仁は優しい言葉をかけてくれた。だけど、その言葉は、私を束縛しようとしているようにしか聞こえない。

「良くない、良くないよ。一緒に居ても仲良くなれなかったとか、私たちは家族じゃないとか、そう言うことだけじゃなくて、そんなの良くない。」

 私は自分の心臓から手を離し、だらりと伸びている仁の右腕を掴み、自分が悟ったことを仁に伝えた。

「どうして、私は心臓が動いていないの。こんなに緊張して、鼓動が激しくなっているはずなのに。」

 右手首を掴み直し、手の甲に指を這わせ、指が絡み合ったまま、私は仁の手を自分の胸に押し当てる。服の胸元に皺が寄り、焦りが高まり、私の額に汗が浮かぶ。

「京子は変わらず、赤い髪だね。」

 今になって、どうして、そのようなことを言い出すのか。前から、そう言う風に、唐突に話しかけてくることは多かったが、こんな時に話す様なことではない。
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