隠れクール上司~その素顔は君には見せはしない~1
思えば、この3年間は地獄だった。
関 一は冷蔵庫に何もないと分かっていながら開けてしまい、庫内の冷気を浴びながら、ふと笑った。
冷蔵庫に何もない、生活。
自分だけの生活がこれほどまでに心地よかったとは。
最近、店の忙しさが落ち着いてきたこともあり、少しずつ自分の生活を取り戻していきたいと思うようになってきていた。
思えば、この3年間は地獄だった。
先輩である男、山中(やまなか)をなじっていたつもりはなかったが、仕事ができない8つも年上の男の仕事を横取りし、自分の数字にすることに快感を得ていたのは確かだった。
しかし、それをなじっていると、けなしていると、それはパワハラだと、他人から初めて言われて気が付いたのは、山中本人の葬式の日だった。言い出したのは、山中の兄、だった。
そもそも、自殺したと知らせて来たのは湊だった。当時既に部長だった湊は、山中の兄がパワハラで自殺したと会社に連絡して来たと告げた。
「数字しか見ていなかった自分の責任だ」と湊は嘆き、涙を流したのに対して、自分は頭の中が真っ白で何も考えられず、詫びの言葉も責任も何も言い返せなかった。
湊に寄り添われる形で葬儀には参列し、その後兄から詳しい話を聞かされた。
「会社には言ってなかったみたいだけど、弟の嫁さんも一週間くらい前に自殺したんだよ」
茶の間とは言い難い、山中の古い一軒家の一室でその話はとりおこなわれた。
「弟が随分悩んでて、その悩みに乗った嫁さんが同じように悩んでノイローゼみたいになってたそうだ。
俺も、近くに住んでるわけじゃないから知らんかったし、葬式の時は弟も詳しく言わなかったから。
でも後から日記が出て来て分かったんだよ。
ざっと書かれてたんでよくは分からないが、会社で仕事のことをとやかく言われてたようだった。
いや、会社というのは本来そういうもんだ。俺も会社に勤めてるからよく分かる。でも、こんな風に夫婦そろって自殺するようなことがあるかえ!?
それをこんな大会社が知らないで済ませようとは思ってないだろうがな」
訳も分からず1人ならず、2人も死んだといきなり聞かされ、
「責任は自分が取ります」
震える声で先に俺が頭を下げたが、湊は1秒置いて、
「その責任については、もちろん取らせていただきます」
落ち着いてしっかり頭を下げてくれた。
「裁判でもいいな?」
相手はじろりと湊を見、湊が一瞬怯むのが分かった。
「そんなお手間をかけなくても、私一個人の責任だということは充分分かっています。何でもさせていただくつもりです」
「関」
あまりそういう口はたたくものではない、という湊の気持ちが伝わったが、人が2人も自分のせいで死んでいるのに、この際金でも地位でもなんでも手放して贖罪を晴らしたいという気持ちの方が大きかった。
「なんでもってあんたね。2人も人が死んでるんだ、そんな簡単なことじゃないよ」
「充分承知の上です」
誠意だけは見せておかなければならないことは分かっている。
「あの、こういうことは口約束では…」
と、湊が口を挟みかけたが、
「じゃあ部長のあんた、あんたが息子の孝一(こういち)を育ててくれ。もう小4だ。それほど手間はかかるまい」
「………」
湊は口を頑なに結んだ。
「かかるのは金だけだよ」
兄はうそぶく。
「あいつは嫁さんの連れ子だ。父親は知らん。だからこういうことになるからバツイチの女なんぞやめとけと言ったのに…騙されたんだよ」
そう言ってはいるが、兄の喉はとても痛そうで、言葉に詰まったのは確かだった。
「私にあずからせて下さい」
俺は言葉を選ばず自ら頭を下げた。
「関! 軽々しくそういう事を言うもんじゃない」
湊は肩を揺すったが、
「何が軽々しいだ! あんたも部長ならパワハラを見て見ぬふりしてたんだろーが。こっちは2人で2億もらってもいいくらいだってーのに」
湊は固まったが、
「私に預からさせて下さい」
今度は深く頭を下げた。
「関! いえ、このお話は弁護士を通させて頂きます」
ただ、湊の声が近くで聞こえる。
「…まあ、あんたにあずかってもらわなくったって、施設にやりゃあいいだけの話だよ。後は、裁判でもらった金をその施設に充てるかな」
「私が預かります。私が育てます」
頭の中では施設代を払うという図式でもいいと思ったはずだが、口ではそう言わなければならない気がした。
汗がしたたり落ち、視線はテーブルから動かせない。
「あそう。じゃあ裁判はしないでやるから、嫁さんの妹も連れてけよ。女だから役に立つだろ」
「そのような要求はのめません」
湊は力強く言い切った。
「はいはい。部長さんはそう言わなきゃいけない立場だからね。
でもこの人が主犯でこの人がそうする、会社には迷惑かけない代わりに自分が始末つけるって言ってんだから。
これは裁判にはなってないから個人の口約束で充分なんだよ。別にこっちも金せびろうってわけじゃない。
子供の籍まで変えてくれってわけじゃない。
まだ父親も必要な年だろうし、その人は若いし。
妹も旦那がいる年だろうし。
まあ、家庭暴力だけはしないでやってくれよな。元義理妹と知らん子といえど、そういうのは後味が悪い」
「きちんと育てさせていただきます!」
目を閉じて、声を上げた。
「関!!」
あの時の湊の声がまだ耳に残っている。
あの時、湊が止めてくれたから、その道を選べたのだ。
あの時、そこまでしなくてもいいと言ってくれたからこそ、惨めな自分を演じられたのだ。
会社に帰ってからは大変すぎて、あまり覚えていない。
とりあえず休暇をとり、何から何まで湊が世話をしてくれて、気が付いたら南区の端の小さな古い一軒家で3人で暮らし始めていた。
子供は大人しく、懐いているかどうかも分からなかったが、必死で働き、その古い家に帰り、妹が作った味のない飯をただ食い、冷たい布団で寝た。
その頃にはもう本社にはいなかった。南区の端の小さな店で店長をしていた。
幸い、のどかな平和な店で慣れれば仕事は大したことはなかった。
子供…孝一がどういう学校生活を送っていたのかは知らない。ただ、山中の兄からは父親代わりになるようなことも言われていたので、懇談会や参観には努めて参加した。
周りの視線があったのかどうかも分からない。ただ俺は、これはしなければならないことなんだと、自分に言い聞かせて、周囲の雑音は完全にシャットダウンしていた。
幸い孝一は頭の良い、大人びた子だったので助かった。
問題は起こさず、いるかいないか分からないように潜み、ただ少し妹と会話するだけだった。
その妹は、肺が弱く、子供の頃から入退院を繰り返しており、入院費がかさんで、生活保護だけの収入で借金を背負っていた。
俺は1000万以上あった預金の半分以上を惜しげもなく使い、借金を返済してやり、病院にも行かせた。
時折、妹が手を握ってくるようなことはあったが、全く何の気も起るはずがなかった。
ただ俺は、その冷たい手に触れられて、背筋が凍るような気持ちでいた。
1年、2年経ち、仕事では任される店が大きくなっていったが、心はどこにもなかった。
湊はよく心配してくれ、息抜きに誘ってはくれていたが、妹が入院していても、孝一がいると思うと、家を空ける気にはならなかった。
そんな折の、束の間の数時間の4人での飲み会。一気に張りつめていた空気が裂けて流れたような気がした。
幾年ぶりかに自分らしさというものを取り戻した気がした。
生きた女を背負い、いつぶりか分からないほどにあの重さと柔らかさに興奮し、1人風呂場で吐きだした。
会社に行き、関 美生と話をするのが楽しいと思い始めていた。
孝一は成績が良く、地域の中学に行くのは惜しいと一年前の懇談会で何気なく先生が言っていたのを思い出し、私立の中学に入ることを強く薦め始めた。しかも、寮があるところを。
俺は、高校へはエスカレーターで行けるとその売りだけで孝一を私立へ入学させることに決めた。
孝一もそれを臨んでいたように思う。
とにかく、金はなんとかなる。後は、自分だけの時間が欲しい。そう願うようになっていた。
タイミングよく、妹は意識不明の重体になり、このまま、いなくなってくれたら本当に自分は楽になれるのだと更に思うようになった。
そして年末、その望みは叶い、ついに、俺はただ孝一の学費だけ払えばいいようになった。
ああ、長かった。
あの時、山中が死んだことは、本当にショックだったが、自らが選んだ道がこれほどまでに長く、しんどいものだとは思いもしなかった。
葬式が終わり、孝一は卒業式を待たずに特別講習に出たいと、3月初めから寮に住み始めた。
そのころから、再び煙草を吸い始めた。
月に10万ほどは給料が減るようになるが、それくらいならなんとかなる。
東都シティの店長から下ろされなければ、月60万の収入は固い。
ようやく自分のアパートに戻った俺は、1人泣いた。
自分がいかに無理をしていたか、この時初めて知った。
休みの日に身体を休めることができるようになった。
眠ることができるようになった。
ぼんやり1日を過ごすことができるようになった。
冷蔵庫に何もない、生活。
自分だけの生活がこれほどまでに心地よかったとは。
最近、店の忙しさが落ち着いてきたこともあり、少しずつ自分の生活を取り戻していきたいと思うようになってきていた。
思えば、この3年間は地獄だった。
先輩である男、山中(やまなか)をなじっていたつもりはなかったが、仕事ができない8つも年上の男の仕事を横取りし、自分の数字にすることに快感を得ていたのは確かだった。
しかし、それをなじっていると、けなしていると、それはパワハラだと、他人から初めて言われて気が付いたのは、山中本人の葬式の日だった。言い出したのは、山中の兄、だった。
そもそも、自殺したと知らせて来たのは湊だった。当時既に部長だった湊は、山中の兄がパワハラで自殺したと会社に連絡して来たと告げた。
「数字しか見ていなかった自分の責任だ」と湊は嘆き、涙を流したのに対して、自分は頭の中が真っ白で何も考えられず、詫びの言葉も責任も何も言い返せなかった。
湊に寄り添われる形で葬儀には参列し、その後兄から詳しい話を聞かされた。
「会社には言ってなかったみたいだけど、弟の嫁さんも一週間くらい前に自殺したんだよ」
茶の間とは言い難い、山中の古い一軒家の一室でその話はとりおこなわれた。
「弟が随分悩んでて、その悩みに乗った嫁さんが同じように悩んでノイローゼみたいになってたそうだ。
俺も、近くに住んでるわけじゃないから知らんかったし、葬式の時は弟も詳しく言わなかったから。
でも後から日記が出て来て分かったんだよ。
ざっと書かれてたんでよくは分からないが、会社で仕事のことをとやかく言われてたようだった。
いや、会社というのは本来そういうもんだ。俺も会社に勤めてるからよく分かる。でも、こんな風に夫婦そろって自殺するようなことがあるかえ!?
それをこんな大会社が知らないで済ませようとは思ってないだろうがな」
訳も分からず1人ならず、2人も死んだといきなり聞かされ、
「責任は自分が取ります」
震える声で先に俺が頭を下げたが、湊は1秒置いて、
「その責任については、もちろん取らせていただきます」
落ち着いてしっかり頭を下げてくれた。
「裁判でもいいな?」
相手はじろりと湊を見、湊が一瞬怯むのが分かった。
「そんなお手間をかけなくても、私一個人の責任だということは充分分かっています。何でもさせていただくつもりです」
「関」
あまりそういう口はたたくものではない、という湊の気持ちが伝わったが、人が2人も自分のせいで死んでいるのに、この際金でも地位でもなんでも手放して贖罪を晴らしたいという気持ちの方が大きかった。
「なんでもってあんたね。2人も人が死んでるんだ、そんな簡単なことじゃないよ」
「充分承知の上です」
誠意だけは見せておかなければならないことは分かっている。
「あの、こういうことは口約束では…」
と、湊が口を挟みかけたが、
「じゃあ部長のあんた、あんたが息子の孝一(こういち)を育ててくれ。もう小4だ。それほど手間はかかるまい」
「………」
湊は口を頑なに結んだ。
「かかるのは金だけだよ」
兄はうそぶく。
「あいつは嫁さんの連れ子だ。父親は知らん。だからこういうことになるからバツイチの女なんぞやめとけと言ったのに…騙されたんだよ」
そう言ってはいるが、兄の喉はとても痛そうで、言葉に詰まったのは確かだった。
「私にあずからせて下さい」
俺は言葉を選ばず自ら頭を下げた。
「関! 軽々しくそういう事を言うもんじゃない」
湊は肩を揺すったが、
「何が軽々しいだ! あんたも部長ならパワハラを見て見ぬふりしてたんだろーが。こっちは2人で2億もらってもいいくらいだってーのに」
湊は固まったが、
「私に預からさせて下さい」
今度は深く頭を下げた。
「関! いえ、このお話は弁護士を通させて頂きます」
ただ、湊の声が近くで聞こえる。
「…まあ、あんたにあずかってもらわなくったって、施設にやりゃあいいだけの話だよ。後は、裁判でもらった金をその施設に充てるかな」
「私が預かります。私が育てます」
頭の中では施設代を払うという図式でもいいと思ったはずだが、口ではそう言わなければならない気がした。
汗がしたたり落ち、視線はテーブルから動かせない。
「あそう。じゃあ裁判はしないでやるから、嫁さんの妹も連れてけよ。女だから役に立つだろ」
「そのような要求はのめません」
湊は力強く言い切った。
「はいはい。部長さんはそう言わなきゃいけない立場だからね。
でもこの人が主犯でこの人がそうする、会社には迷惑かけない代わりに自分が始末つけるって言ってんだから。
これは裁判にはなってないから個人の口約束で充分なんだよ。別にこっちも金せびろうってわけじゃない。
子供の籍まで変えてくれってわけじゃない。
まだ父親も必要な年だろうし、その人は若いし。
妹も旦那がいる年だろうし。
まあ、家庭暴力だけはしないでやってくれよな。元義理妹と知らん子といえど、そういうのは後味が悪い」
「きちんと育てさせていただきます!」
目を閉じて、声を上げた。
「関!!」
あの時の湊の声がまだ耳に残っている。
あの時、湊が止めてくれたから、その道を選べたのだ。
あの時、そこまでしなくてもいいと言ってくれたからこそ、惨めな自分を演じられたのだ。
会社に帰ってからは大変すぎて、あまり覚えていない。
とりあえず休暇をとり、何から何まで湊が世話をしてくれて、気が付いたら南区の端の小さな古い一軒家で3人で暮らし始めていた。
子供は大人しく、懐いているかどうかも分からなかったが、必死で働き、その古い家に帰り、妹が作った味のない飯をただ食い、冷たい布団で寝た。
その頃にはもう本社にはいなかった。南区の端の小さな店で店長をしていた。
幸い、のどかな平和な店で慣れれば仕事は大したことはなかった。
子供…孝一がどういう学校生活を送っていたのかは知らない。ただ、山中の兄からは父親代わりになるようなことも言われていたので、懇談会や参観には努めて参加した。
周りの視線があったのかどうかも分からない。ただ俺は、これはしなければならないことなんだと、自分に言い聞かせて、周囲の雑音は完全にシャットダウンしていた。
幸い孝一は頭の良い、大人びた子だったので助かった。
問題は起こさず、いるかいないか分からないように潜み、ただ少し妹と会話するだけだった。
その妹は、肺が弱く、子供の頃から入退院を繰り返しており、入院費がかさんで、生活保護だけの収入で借金を背負っていた。
俺は1000万以上あった預金の半分以上を惜しげもなく使い、借金を返済してやり、病院にも行かせた。
時折、妹が手を握ってくるようなことはあったが、全く何の気も起るはずがなかった。
ただ俺は、その冷たい手に触れられて、背筋が凍るような気持ちでいた。
1年、2年経ち、仕事では任される店が大きくなっていったが、心はどこにもなかった。
湊はよく心配してくれ、息抜きに誘ってはくれていたが、妹が入院していても、孝一がいると思うと、家を空ける気にはならなかった。
そんな折の、束の間の数時間の4人での飲み会。一気に張りつめていた空気が裂けて流れたような気がした。
幾年ぶりかに自分らしさというものを取り戻した気がした。
生きた女を背負い、いつぶりか分からないほどにあの重さと柔らかさに興奮し、1人風呂場で吐きだした。
会社に行き、関 美生と話をするのが楽しいと思い始めていた。
孝一は成績が良く、地域の中学に行くのは惜しいと一年前の懇談会で何気なく先生が言っていたのを思い出し、私立の中学に入ることを強く薦め始めた。しかも、寮があるところを。
俺は、高校へはエスカレーターで行けるとその売りだけで孝一を私立へ入学させることに決めた。
孝一もそれを臨んでいたように思う。
とにかく、金はなんとかなる。後は、自分だけの時間が欲しい。そう願うようになっていた。
タイミングよく、妹は意識不明の重体になり、このまま、いなくなってくれたら本当に自分は楽になれるのだと更に思うようになった。
そして年末、その望みは叶い、ついに、俺はただ孝一の学費だけ払えばいいようになった。
ああ、長かった。
あの時、山中が死んだことは、本当にショックだったが、自らが選んだ道がこれほどまでに長く、しんどいものだとは思いもしなかった。
葬式が終わり、孝一は卒業式を待たずに特別講習に出たいと、3月初めから寮に住み始めた。
そのころから、再び煙草を吸い始めた。
月に10万ほどは給料が減るようになるが、それくらいならなんとかなる。
東都シティの店長から下ろされなければ、月60万の収入は固い。
ようやく自分のアパートに戻った俺は、1人泣いた。
自分がいかに無理をしていたか、この時初めて知った。
休みの日に身体を休めることができるようになった。
眠ることができるようになった。
ぼんやり1日を過ごすことができるようになった。