初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
「そんなこと、絶対にありえません」
これ以上、アントニウスにキスされないように、アレクサンドラは必死に言葉を選んだ。
「ありえないというと?」
興味深そうに、アントニウスがアレクサンドラの顔を覗き込んだ。
「もし陛下のご命令でフランツとダンスをしなくてはならないというのであれば、この腕を切り落とします。もし陛下がフランツと結婚しろとお命じになられるのならば、即刻修道院に入るか、喉に短剣を突き立てて自害します」
令嬢としては過激過ぎる発言に、アントニウスは驚いて目をしばたいたが、やはり自分を虜にしたアレクサンドラだけあると、妙に納得もした。
「確かフランツの話では、アレクシスと二回決闘したとのことでしたが、もう少しでとどめを刺せるところだったとか」
「逆です。アレクシスが、もう少しでフランツのとどめを刺してしまいそうになり、ジャスティーヌが止めに入って納めたのです」
「そうでしたか」
アントニウスは言うと、少し考えてから口を開いた。
「彼をあなたに近づけない良い方法があります」
「どんな? 方法ですの?」
なんとか女性言葉につなぎなおし、アレクサンドラはアントニウスを見上げた。
「公の席に出席する時は、必ず私がエスコートすることにすればいいのです」
アントニウスの提案は最も簡単な方法だったが、いつまでエイゼンシュタインに滞在していられるのかわからないアントニウスに頼り切るのには不安があった。
「あなたも、私を篭絡するためには私の傍に居る方が楽でしょう? そして、私が他の女性に気持ちを移さないように、つなぎ留めておくことが出来る。ゲームは楽しまないと・・・・・・」
木々を鳴らすような突風が吹き、アレクサンドラはドレスの裾がもちあがらないよう、必死に両手で押さえた。しかし、その冷たい風が、今までの楽しかったアントニウスの時間がすべて作り物であったことをアレクサンドラに思い出させた。
アントニウスとアレクサンドラの本当の関係は、両親の知っている心優しい親切な支援者と支援を受ける間柄ではない。二人の関係は、あの日、アレクシスが実は女性で、アレクサンドラが男装していたのだという秘密を知られてしまってから、弱みを握った者と握られた者。つまり、脅されるものと脅すもの。アントニウスが命じれば、アレクサンドラには拒否権はない。
それなのに、あまりにダンスのレッスンの時のアントニウスが優しくて紳士で、アレクサンドラはこのまま二人の関係がジャスティーヌの婚約者となるであろうロベルトを介した、親しい友人になれるのではないかと言う幻想を抱いていた自分に気付き、そして絶望した。
「あなたを篭絡するなんて、私には最初から無理です」
ずっと考え続けていた言葉をアレクサンドラは口にした。
「あなたが、他の女性を好きだと思われたら、私の事など忘れてくださって構いません」
「では、秘密の事はもうどうでも良いと?」
アントニウスの瞳がじっとアレクサンドラの瞳の奥を覗いた。
「それは困ります。ですから、私は、あなたの言う事には何でも従います。どんなことでも・・・・・・」
アレクサンドラの言葉に、アントニウスが驚愕の表情を浮かべた。
「社交界のデビューの支度にどれほどのお金がかかるのか、世間知らずな私には正確にはわかりませんが、夜会ドレスだけでなく、普段着まで、何もかも揃えてくださる費用は、きっと莫大な額だと思います。それはきっと、私の両親には、領地を売り払っても用意できないような額でしょう。それが哀れみであれ、同情であれ、単にあなたの言うゲームを楽しくするための小道具であれ、これほどまでにしてくださるあなたの命令ならば、私は、どんな命令でも従います。あなたがエイゼンシュタインに滞在する間の情婦になれというなら、私はあなたの情婦になります。それがあなたの望みならば・・・・・・」
アレクサンドラの言葉を聞き、アントニウスは自分がやりすぎたことに気付いた。
単なるゲーム、恋を始める前の余興のつもりだったことが、これほどまでにアレクサンドラの心を追い詰め、淑女として言葉にするのも憚られる情婦などという言葉まで口にするほどアレクサンドラを追い詰めてしまったことに、アントニウスは激しく後悔した。
「そんな事は望んでいません」
何とか否定する言葉を口にしてみたものの、従順に服従の意を示すアレクサンドラの瞳は輝きを取り戻さなかった。
「あなたを情婦などと言う卑しい立場に貶めるつもりなど全くありません」
「ですが、私にできることは他に何もないのです。私が持っているのは、アレクサンドラと言う名前と、この体だけなんです。父の名誉と姉の幸せと家を守るためなら、今ここで不敬の罪で、あなたの剣で胸を刺し貫かれたとしても文句は言いません」
これがアレクシスの姿だったら、アントニウスは剣の勝負を申し込み、わざと負けてでも話をなかったことにすることも出来たが、淑女であるアレクサンドラが相手では、こうして言葉を交わすことはできても、追い詰められたアレクサンドラの心を救う方法は全く思いつかなかった。
「では、こうしましょう。あの日、私は何も見なかった。あの日、落馬したのはあなたの遠縁にあたるアレクシスで、あなたはロベルトと一緒に私たちを待っていた。そうでしたね?」
アントニウスの言葉は、アレクサンドラの耳には届いていなかった。
「私は貧しい伯爵家の娘、優秀で上品なジャスティーヌとは違い、所詮は名ばかりの令嬢です。本当ならば、あなたに釣り合うほどの価値もありません。でも、それほどまでに社交界の話題となっているなら、一時だけでも、あなたを満足させることができるかもしれません。私の存在が邪魔になったら、すぐに修道院に入るようにと命じるだけで構いません。決して、あなたにご迷惑はおかけしません」
話を聞かないアレクサンドラに、思わずアントニウスはアレクサンドラの両腕を掴んだ。
「ちゃんと話を聞いてください。私は、あなたの事を・・・・・・」
痛みに顔を歪ませながらも、アレクサンドラは『痛い』とも『放せ』とも言わなかった。
「アレクサンドラ・・・・・・」
アントニウスの腕から力が抜けた。
この絶対絶命の状況を回避する方法は、ただ一つしかないと、アントニウスは心を決めるとアレクサンドラの前に膝をつき、帯剣していたサーベルを外すと脇に置いた。そして、ゆっくりとアレクサンドラを見上げた。
「アレクサンドラ、どうか私、ザッカローネ公爵家嫡男、アントニウスの妻に・・・・・・」
差し出したアントニウスの手をアレクサンドラが取ってくれれば、それですべてが元に戻るはずだった。
しかし、アレクサンドラはアントニウスの手を取らなかった。
「申し訳ございません。私は姉と違い、イルデランザの言葉はあいさつ程度しかできません。それに、とても公爵家ご嫡男の妻に等なれる身分でもございません。どうか、もうこれ以上、からかうのはおやめください」
輝きを失い、曇った瞳が悲しみを湛えてアントニウスを見つめていた。
今すぐにでもアレクサンドラを抱きしめたいという思いと、誰よりも愛する人の心を粉々に砕いてしまったという絶望感に、アントニウスはどうしてよいのか分からず、その場を逃げるようにして走り去った。
残されたアレクサンドラは、涙を拭いながら置き忘れられたアントニウスの剣を拾い上げた。
アレクサンドラがアレクシスとして身に着けていた細身のサーベルとは違い、長身のアントニウスのサーベルは長さも長くずっしりと重かった。
こんなに重い剣を帯び、あれほど華麗にダンスを踊っていたアントニウスは、やはり本物の男性なのだと、アレクサンドラは思った。
レディとしての特訓や、手紙を書く役に立つからとジャスティーヌに借りた恋の物語が原因なのか、遅ればせながらもレディとしての自分が目覚めて来たのか、アレクサンドラ自身にもよくわからなかったが、ただ、もう自分は女性として生きていくしかないのだと、あの自分の浅はかな過ちの為に家の名誉を穢し、大切なジャスティーヌの幸せを滅茶苦茶にし、父の名に泥を塗ることだけは避けなくてはいけないと、最近は、ただそれだけを考えるようになっていた。
「お遊びや冗談で結婚を申し込むなんて酷いよ・・・・・・。きっと真に受けて、あの手を取ったら笑われたんだよね、やっぱり浅はかな女だって。自分の立場もわきまえない、不遜な女だって・・・・・・」
プロポーズ自体が、未だゲームの延長線上にあるとしか考えられないアレクサンドラは、誰に言うでもなく呟くと、再び涙を拭い、重いアントニウスの剣を手に屋敷への道をゆっくりと歩いて戻った。
アレクサンドラが屋敷に戻ってみると、既にアントニウスは急用ができたと言って、ピアニストを連れて帰った後だった。
「あら、それはアントニウス様の?」
アレクサンドラが持っている剣に気付いたジャスティーヌが尋ねた。
「そうだよ。重いからって、外して散歩をしていたら、急用を思い出したって走っていっちゃってさ。だから、あとで今日のダンスのお礼の手紙と一緒に届けさせるよ」
アレクサンドラは言うと、それ以上ジャスティーヌに詮索されないよう、さっさと自分の部屋へ戻った。
☆☆☆
これ以上、アントニウスにキスされないように、アレクサンドラは必死に言葉を選んだ。
「ありえないというと?」
興味深そうに、アントニウスがアレクサンドラの顔を覗き込んだ。
「もし陛下のご命令でフランツとダンスをしなくてはならないというのであれば、この腕を切り落とします。もし陛下がフランツと結婚しろとお命じになられるのならば、即刻修道院に入るか、喉に短剣を突き立てて自害します」
令嬢としては過激過ぎる発言に、アントニウスは驚いて目をしばたいたが、やはり自分を虜にしたアレクサンドラだけあると、妙に納得もした。
「確かフランツの話では、アレクシスと二回決闘したとのことでしたが、もう少しでとどめを刺せるところだったとか」
「逆です。アレクシスが、もう少しでフランツのとどめを刺してしまいそうになり、ジャスティーヌが止めに入って納めたのです」
「そうでしたか」
アントニウスは言うと、少し考えてから口を開いた。
「彼をあなたに近づけない良い方法があります」
「どんな? 方法ですの?」
なんとか女性言葉につなぎなおし、アレクサンドラはアントニウスを見上げた。
「公の席に出席する時は、必ず私がエスコートすることにすればいいのです」
アントニウスの提案は最も簡単な方法だったが、いつまでエイゼンシュタインに滞在していられるのかわからないアントニウスに頼り切るのには不安があった。
「あなたも、私を篭絡するためには私の傍に居る方が楽でしょう? そして、私が他の女性に気持ちを移さないように、つなぎ留めておくことが出来る。ゲームは楽しまないと・・・・・・」
木々を鳴らすような突風が吹き、アレクサンドラはドレスの裾がもちあがらないよう、必死に両手で押さえた。しかし、その冷たい風が、今までの楽しかったアントニウスの時間がすべて作り物であったことをアレクサンドラに思い出させた。
アントニウスとアレクサンドラの本当の関係は、両親の知っている心優しい親切な支援者と支援を受ける間柄ではない。二人の関係は、あの日、アレクシスが実は女性で、アレクサンドラが男装していたのだという秘密を知られてしまってから、弱みを握った者と握られた者。つまり、脅されるものと脅すもの。アントニウスが命じれば、アレクサンドラには拒否権はない。
それなのに、あまりにダンスのレッスンの時のアントニウスが優しくて紳士で、アレクサンドラはこのまま二人の関係がジャスティーヌの婚約者となるであろうロベルトを介した、親しい友人になれるのではないかと言う幻想を抱いていた自分に気付き、そして絶望した。
「あなたを篭絡するなんて、私には最初から無理です」
ずっと考え続けていた言葉をアレクサンドラは口にした。
「あなたが、他の女性を好きだと思われたら、私の事など忘れてくださって構いません」
「では、秘密の事はもうどうでも良いと?」
アントニウスの瞳がじっとアレクサンドラの瞳の奥を覗いた。
「それは困ります。ですから、私は、あなたの言う事には何でも従います。どんなことでも・・・・・・」
アレクサンドラの言葉に、アントニウスが驚愕の表情を浮かべた。
「社交界のデビューの支度にどれほどのお金がかかるのか、世間知らずな私には正確にはわかりませんが、夜会ドレスだけでなく、普段着まで、何もかも揃えてくださる費用は、きっと莫大な額だと思います。それはきっと、私の両親には、領地を売り払っても用意できないような額でしょう。それが哀れみであれ、同情であれ、単にあなたの言うゲームを楽しくするための小道具であれ、これほどまでにしてくださるあなたの命令ならば、私は、どんな命令でも従います。あなたがエイゼンシュタインに滞在する間の情婦になれというなら、私はあなたの情婦になります。それがあなたの望みならば・・・・・・」
アレクサンドラの言葉を聞き、アントニウスは自分がやりすぎたことに気付いた。
単なるゲーム、恋を始める前の余興のつもりだったことが、これほどまでにアレクサンドラの心を追い詰め、淑女として言葉にするのも憚られる情婦などという言葉まで口にするほどアレクサンドラを追い詰めてしまったことに、アントニウスは激しく後悔した。
「そんな事は望んでいません」
何とか否定する言葉を口にしてみたものの、従順に服従の意を示すアレクサンドラの瞳は輝きを取り戻さなかった。
「あなたを情婦などと言う卑しい立場に貶めるつもりなど全くありません」
「ですが、私にできることは他に何もないのです。私が持っているのは、アレクサンドラと言う名前と、この体だけなんです。父の名誉と姉の幸せと家を守るためなら、今ここで不敬の罪で、あなたの剣で胸を刺し貫かれたとしても文句は言いません」
これがアレクシスの姿だったら、アントニウスは剣の勝負を申し込み、わざと負けてでも話をなかったことにすることも出来たが、淑女であるアレクサンドラが相手では、こうして言葉を交わすことはできても、追い詰められたアレクサンドラの心を救う方法は全く思いつかなかった。
「では、こうしましょう。あの日、私は何も見なかった。あの日、落馬したのはあなたの遠縁にあたるアレクシスで、あなたはロベルトと一緒に私たちを待っていた。そうでしたね?」
アントニウスの言葉は、アレクサンドラの耳には届いていなかった。
「私は貧しい伯爵家の娘、優秀で上品なジャスティーヌとは違い、所詮は名ばかりの令嬢です。本当ならば、あなたに釣り合うほどの価値もありません。でも、それほどまでに社交界の話題となっているなら、一時だけでも、あなたを満足させることができるかもしれません。私の存在が邪魔になったら、すぐに修道院に入るようにと命じるだけで構いません。決して、あなたにご迷惑はおかけしません」
話を聞かないアレクサンドラに、思わずアントニウスはアレクサンドラの両腕を掴んだ。
「ちゃんと話を聞いてください。私は、あなたの事を・・・・・・」
痛みに顔を歪ませながらも、アレクサンドラは『痛い』とも『放せ』とも言わなかった。
「アレクサンドラ・・・・・・」
アントニウスの腕から力が抜けた。
この絶対絶命の状況を回避する方法は、ただ一つしかないと、アントニウスは心を決めるとアレクサンドラの前に膝をつき、帯剣していたサーベルを外すと脇に置いた。そして、ゆっくりとアレクサンドラを見上げた。
「アレクサンドラ、どうか私、ザッカローネ公爵家嫡男、アントニウスの妻に・・・・・・」
差し出したアントニウスの手をアレクサンドラが取ってくれれば、それですべてが元に戻るはずだった。
しかし、アレクサンドラはアントニウスの手を取らなかった。
「申し訳ございません。私は姉と違い、イルデランザの言葉はあいさつ程度しかできません。それに、とても公爵家ご嫡男の妻に等なれる身分でもございません。どうか、もうこれ以上、からかうのはおやめください」
輝きを失い、曇った瞳が悲しみを湛えてアントニウスを見つめていた。
今すぐにでもアレクサンドラを抱きしめたいという思いと、誰よりも愛する人の心を粉々に砕いてしまったという絶望感に、アントニウスはどうしてよいのか分からず、その場を逃げるようにして走り去った。
残されたアレクサンドラは、涙を拭いながら置き忘れられたアントニウスの剣を拾い上げた。
アレクサンドラがアレクシスとして身に着けていた細身のサーベルとは違い、長身のアントニウスのサーベルは長さも長くずっしりと重かった。
こんなに重い剣を帯び、あれほど華麗にダンスを踊っていたアントニウスは、やはり本物の男性なのだと、アレクサンドラは思った。
レディとしての特訓や、手紙を書く役に立つからとジャスティーヌに借りた恋の物語が原因なのか、遅ればせながらもレディとしての自分が目覚めて来たのか、アレクサンドラ自身にもよくわからなかったが、ただ、もう自分は女性として生きていくしかないのだと、あの自分の浅はかな過ちの為に家の名誉を穢し、大切なジャスティーヌの幸せを滅茶苦茶にし、父の名に泥を塗ることだけは避けなくてはいけないと、最近は、ただそれだけを考えるようになっていた。
「お遊びや冗談で結婚を申し込むなんて酷いよ・・・・・・。きっと真に受けて、あの手を取ったら笑われたんだよね、やっぱり浅はかな女だって。自分の立場もわきまえない、不遜な女だって・・・・・・」
プロポーズ自体が、未だゲームの延長線上にあるとしか考えられないアレクサンドラは、誰に言うでもなく呟くと、再び涙を拭い、重いアントニウスの剣を手に屋敷への道をゆっくりと歩いて戻った。
アレクサンドラが屋敷に戻ってみると、既にアントニウスは急用ができたと言って、ピアニストを連れて帰った後だった。
「あら、それはアントニウス様の?」
アレクサンドラが持っている剣に気付いたジャスティーヌが尋ねた。
「そうだよ。重いからって、外して散歩をしていたら、急用を思い出したって走っていっちゃってさ。だから、あとで今日のダンスのお礼の手紙と一緒に届けさせるよ」
アレクサンドラは言うと、それ以上ジャスティーヌに詮索されないよう、さっさと自分の部屋へ戻った。
☆☆☆