初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
 サラマス少将の前を辞し、それぞれの部隊の待つ場所へと向かう上級士官たちを見送るアントニウスに、大佐のペレスが歩み寄ってきた。
「さすがだな、アントニウス。あそこまで予定通りにいくとは、正直思ってもいなかった」
 ヤニスの言葉に、アントニウスは苦笑して見せた。
 実際、報告の内容の精査をしてみないとわからないが、どうやら嘘のようにこの計画がうまくいったことは間違いなかった。
 そして、このアントニウスの作戦はポレモス側が情報を共有する以前に、残り二か所の最前線でも実行に移される予定になっていた。
「相手が単純でよかったと思わせられる瞬間です、大佐」
 アントニウスが直立して答えると、ヤニスが笑ってアントニウスの肩を叩いた。
「確かに、前線での馴れ合いは兵の士気を下げるとは言うが、私は大佐としてではなく、指導官として、自分の指導した士官が目の覚めるような結果を出したことを誇りに思っているし、それほど優秀な指導生を指導できたことを光栄に思っているよ」
 戦場に似合わない、優しい笑顔でヤニスが笑った瞬間、アントニウスははるか遠くで何かが鈍く光るのを視界に捉えた。
 次の瞬間、アントニウスはヤニスを突き飛ばすようにして壕の土壁の方に押しやった。
 それと時を同じくして、炸裂音が壕の周辺にこだました。
 前方からの衝撃に直撃されたアントニウスの体は積木か崩れるように無様に後ろに揺らめいて崩れ落ちた。
「アントニウス!」
 一瞬、何が起きたのか理解するのを拒む脳を奮い立たせ、ヤニスがアントニウスに走り寄った。
 アントニウスの胸からは鮮血がほとばしり、被弾したことは疑うまでもなかった。
 二人の背後で争う声が響き、アントニウスを撃った犯人は捕らえられたようだったが、ヴァシリキが軍医を呼んで戻ってくるまでの時間が永遠の様に長くヤニスには感じられた。
 『メルクーリ大尉、ペレス大佐をかばって被弾』の知らせは陣内に瞬く間に広がっていった。
 大公位継承権を持つアントニウスが、一兵卒出身の大佐であるペレスを守り被弾したことは、部隊内のポレモスに対する憎悪を否が応でも燃え上がらせた。それと同時に、大公位継承権を持ちながら、一個人としての命の重みを顧みず、大佐の命を守ったアントニウスへの評価は鰻上りとなった。


 壕の外、部隊より少し後ろに配置された医療テントに運ばれたアントニウスの意識は戻らず、軍医は命の危険があるとして、緊急の手術が必要であるとサラマス少将の許可を求めた。
 本来、けがをすることを想定されていない大公位継承権を持つアントニウスの対応に現場は大慌てになった。万が一、ここでアントニウスが命を落とすようなことになれば、軍医全員の責任問題になる可能性もあるし、本来、手術のような大掛かりな医療行為は、大公宮殿に常駐する御殿医達の仕事であり、隊と共に常駐している軍医たちに、そのような高貴な身分の人間に手術を施すような権限は与えられていない。
 蜂の巣をつついたような状態になった軍医たちに、『ここで、何もせずにメルクーリ大尉が命を落とせば、私の首やコリントス中将の首を差し出すだけでは済むまい』というサラマス少将が告げると、軍医たちは腹をくくったように手術の準備を始めた。

「ヴァシリキ・・・・・・」
 テントの前に直立不動で控えるヴァシリキにヤニスが声をかけた。
「ペレス大佐・・・・・・」
 ヴァシリキはヤニスに直ちに敬礼した。
「じつは、アントニウスの事で聞きたいことがあるのだが・・・・・・」
「はい、何でございましょうか大佐」
「私のせいでアントニウスにけがをさせてしまった。そこで、私から、アントニウスの、その恋人にお詫びの手紙を書きたいと思っているのだが、君なら、アントニウスがどこのご令嬢にかいがいしく手紙を送っているか知ってはいないだろうか?」
 あくまでも控えめな問いだが、例えアントニウスと言えども、従卒のヴァリシキに知られずに戦地から手紙を誰かに送ることはできない。しかし、職務の関係上、おとなしくヴァリシキが話してくれるかどうかはわからなかった。
「申し訳ございません大佐、メルクーリ大尉は・・・・・・」
 ヴァリシキの言葉をヤニスは手で制した。
「ヴァシリキ、君の立場はわかっている。従卒の身で、主の事を上官といえども軽々しく口にすることができないことは、重々承知している。だが、私はアントニウスが士官候補生となった時の指導官であり、個人的な友人でもある。戦地に赴く前、アントニウス自身から、生涯を共にしたいと思える相手に出会ったと、そう聞かされている」
 ヤニスが説明するのを待ってから、ヴァシリキは言葉を続けた。
「大佐のお話は、メルクーリ大尉より、伺っております。ですが、メルクーリ大尉は本部宛ての書簡の他は、すべてご自宅宛てにお送りになられていらっしゃいます」
「そうか、以前とは変わったという事なのだろうな。私が指導していたころは、良く相手の名を耳にした程だったが、その様子では、ヴァリシキも知らないのだろうな?」
「はい、大佐。私は一切存じ上げません」
「すまないが、アントニウスの執事の名前を知っているか?」
「はい、大佐。ミケーレ殿になられます。自分は、荷物を取りにお屋敷に伺った際に、一度ご挨拶申し上げました」
「そうだった。よく宿舎にアントニウスの様子を見に来ていたのは、ミケーレ殿だったな。ヴァリシキ、私は、前線に戻る必要がある、くれぐれもアントニウスの事を頼む」
 ヤニスは言うと、直立不動で敬礼するヴァシリキに見送られ、医療テントを後にした。

☆☆☆

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