初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
一人なることで、自分の身に降りかかるであろう災いにも思い至らず、アレクサンドラはこれ以上幸せなジャスティーヌとロベルトの邪魔をしたくなく、長い廊下を足早に進んで人気のない静かな場所を探して屋敷の中を進んだ。
突き当たったサロンの奥のガラス戸を開けると、外には美しい庭が広がっていた。
アーチボルト伯爵家の庭は庭園というものではなく、自然に生い茂っているというのが正しい表現のような庭で、ホーエンバウム公爵邸の庭は、美しい庭園だった。
導かれるようにして庭に出ると、屋敷の明かりが届かない庭園からは美しい月が天頂に昇ろうとしていた。
「綺麗・・・・・・」
月明かりに霞む夜空の星々と煌々と光を放つ月を見上げ、アレクサンドラはほっと息をついた。
アレクシスとして数多くの夜会に出席した時には感じたことのない緊張感と、言葉には表現できない息苦しさをアレクサンドラは感じていた。
それは、アントニウスにエスコートされ出席した夜会では感じたことのないものだった。
(・・・・・・・・アントニウス様・・・・・・。あなたがお傍にいらっしゃらないと、いつ付け焼刃のレディが剥がれ落ちてしまうのではないかと心配で、こんなに落ち着かない気分になるなんて、私には、やはりこのような華やかな世界は相応しくないのですね・・・・・・・・)
ドレスの裾も気にせず、東屋へと続く石畳を進んでいたアレクサンドラは、突然背後に人の気配を感じ、はじかれたように振り向いた。
「何を驚いているのですか? この私を誘い出すために、わざわざこんな場所まで一人できたのでしょう?」
揺るがぬ自信に満ちた言葉は、事実とは異なっていても、それを身分に物言わせて相手に押し付ける事のできる侯爵家嫡男の横暴のなせる業だった。
「私があなたと? お戯れを! 私は、月を見に外へ出ただけです。そろそろ戻らないと、家族が心配しますから」
アレクサンドラはフランツを無視して屋敷の方に戻ろうとしたが、不躾にもフランツはアレクサンドラの腕をしっかりと掴んで引き寄せた。
「な、なにを!」
振り払おうにも、がっちりと掴まれた腕はびくとも動かなかった。
「お放しください!」
ドレス姿でどれほど語気を荒げても、フランツの笑みを誘うだけでアレクシスの時のようにはいかない。
何とか掴まれた腕を引き戻そうと力を入れても、ビクともしなかった。
(・・・・・・・・どういうこと? アントニウス様が相手ならまだしも、フランツなんて、何度も剣を交えて、一度は私が命を奪えるチャンスすらあったのに、これがあのフランツ? 何か、私が知らない間に特殊な訓練でもしたっていうの?・・・・・・・・)
動揺を見せるアレクサンドラにフランツが距離を縮めた。
「残念ながら、私はあなたの従弟のアレクシスのようなモヤシではありませんよ」
本人のいない場所で相手を貶める、アレクサンドラの一番嫌いなタイプの集大成と言えるのが、このフランツだった。
「ジャスティーヌに付きまとい、アレクシスに決闘で負けた方の言葉とは思えませんわね」
言ってしまってから、アレクサンドラは自分の言葉が火に油を注ぐ結果になったことを思い知らせた。
「あの、忌々しい平民め!」
言うなり、フランツはアレクサンドラを強引に抱き寄せた。
「いや!」
必死に腕を突っ張ってフランツを追いやろうとしても、フランツの力の前にアレクサンドラの腕はじわりじわりと腕力に屈して肘が曲がってしまう。それと同時に、フランツのにやけた嫌らしい笑みがじわりじわりと近づいてくる。
「おとなしく言うことを聞けば、いい思いをさせてやると言ってるんだよ。どう頑張ったところで王子はこの国に一人、瓜二つとはいえ、殿下が選んだのはジャスティーヌ。そうなれば、侯爵家との縁組は願ってもない良縁だろう?」
完全に隣国イルデランザ公国の公爵家の嫡男にして、ファーレンハイト伯爵であるアントニウスの事を無視する発言に、アレクサンドラはアントニウスが話していた権力に妄執し、目先の利益や既得権益を守る事だけに執着し、自領の民の暮らしの安寧など考えることもない、貴族階級にあぐらし、貴族の貴族たる所以である、自領の民の平和と安寧を守るという責務を忘れた者たちの姿を目の当たりにしている気がした。
「いい思いですって? あなたの家が豊かなのは、民を虐げ、搾取しているからでしょう!」
アレクサンドラの言葉に、フランツは笑いを堪えるのに耐えかねたと言わんばかりに大声で笑い始めた
「何を言い出すかと思えば。民の暮らしだと? 奴らはせっせと働いて、税を払うためにいるのだ。税を払うためにいる民から税を取って何が悪い? 税の徴収だって、死なない程度には、手心を加えてやっている」
ありがたく思えと言わんばかりのフランツの言葉に、アレクサンドラは背筋が凍るような恐怖を覚えた。
「お前の父の様に、民くさの命にばかりこだわるから、年頃の娘が行き遅れるのだ」
「なっ・・・・・・」
「貴族に生まれたのだ。良い物を着、良いものを食べ、良い酒を飲む。これは我ら高貴な命に許された特権だ。それを民の生活だの、民の命だのと、つまらぬ事にこだわるから、貴族とも思えないような暮らし向きになるのだ。この私が、お前を立派なレディにしてやる。良い物を食べ、良い物を着、いい酒を飲み、立派なレディにな・・・・・・」
アレクサンドラはフランツが正気なのかと不安になった。
「お放しください!」
アレクサンドラが再び声をあげると、フランツは忌々しそうにアレクサンドラの事を見つめた。
「貧乏伯爵家の娘がいい気になるなよ! お前程度の家柄の娘であれば、力づくで俺の物にしたところで、何の問題にもならないという事を思い知らせてやろうか?」
力づくで唇を奪おうとするフランツに、アレクサンドラは必死に体をよじって抵抗した。
「だ、誰か! 誰か!」
声を限りに助けを求めたその時、ガサリという枝と枝が擦れ合う音がした。
アレクサンドラの胸に、もしやアントニウスが戻ったのではという淡い期待が広がった。
そして、はっきりと夜目にも上質の男物とわかる靴がアレクサンドラの視界に入り、強い力でアレクサンドラとフランツの体は強引に引き離された。
「無礼な、なにを・・・・・・」
意義を唱えるフランツの言葉が尻すぼみに小さくなっていった。
その様子から、相手がアントニウスではないと、侯爵家の嫡男であるフランツが焦るほどの身分にある相手だと、アレクサンドラにも察することができた。
「フランツ・カルザス、もう少し見どころのある若者かと思っていたが、全く失望した。世の許しなく、今後二度とバルザック侯爵家の者がアーチボルト伯爵家の者に話しかけることを禁ずる。わかったら、おのれの愚行を恥じ、そなたの父に事の顛末を報告するがよい。この事は、明日の朝一番に、勅命として発する」
顔面蒼白になり、ぶるぶると震えながらも、フランツは深々とお辞儀をしてからその場を逃げるようにして去って行った。
アレクサンドラが顔をあげると、優しく微笑むリカルド三世の姿があった。
「お助けいただき、ありがとうございます」
アレクサンドラは慌ててお辞儀をしながら言った。
「そなたと言葉を交わすのは、あの謁見の日以来だったな。まるで自分の娘の様に感じるのは、我が片腕にして、我が心の友、ルドルフの娘故か、それとも、そなたがジャスティーヌに瓜二つだからか・・・・・・。まあよい。あの無礼者の事は心配せずとも良い。二度と、そなたのそばには近づかせない」
リカルド三世は言うと、優しい瞳でアレクサンドラの事を包むように見つめた。
「世も、ここから見る月が気に入っておる。今宵は、ロベルトがジャスティーヌにバラを贈るというので、忍んでここまで来たのだが、まさか、あのような現場に出くわすとは思ってもいなかった。他言せぬ故、心配はいらない」
何もかもが突然の事で、アレクサンドラは言葉がのどに詰まってしまったように、何も返事をすることができなかった。
「世は、静かに東屋に戻り月を眺めるゆえ、世がここにいることは他言無用じゃ」
リカルド三世は言うと、アレクサンドラの返事を待たず、東屋の方へと歩き始めた。
アレクサンドラは、その背中に深々と一礼すすると、屋敷の中へ戻り、広間へと歩を進めた。
リカルド三世は、父であるアーチボルト伯爵の事を『友』と呼んだ。そのことが、とても誇らしく、貧乏な生活をしても、民の暮らしを大切にし、一番に領民の事を考える父の事が誇らしく思えた。
突き当たったサロンの奥のガラス戸を開けると、外には美しい庭が広がっていた。
アーチボルト伯爵家の庭は庭園というものではなく、自然に生い茂っているというのが正しい表現のような庭で、ホーエンバウム公爵邸の庭は、美しい庭園だった。
導かれるようにして庭に出ると、屋敷の明かりが届かない庭園からは美しい月が天頂に昇ろうとしていた。
「綺麗・・・・・・」
月明かりに霞む夜空の星々と煌々と光を放つ月を見上げ、アレクサンドラはほっと息をついた。
アレクシスとして数多くの夜会に出席した時には感じたことのない緊張感と、言葉には表現できない息苦しさをアレクサンドラは感じていた。
それは、アントニウスにエスコートされ出席した夜会では感じたことのないものだった。
(・・・・・・・・アントニウス様・・・・・・。あなたがお傍にいらっしゃらないと、いつ付け焼刃のレディが剥がれ落ちてしまうのではないかと心配で、こんなに落ち着かない気分になるなんて、私には、やはりこのような華やかな世界は相応しくないのですね・・・・・・・・)
ドレスの裾も気にせず、東屋へと続く石畳を進んでいたアレクサンドラは、突然背後に人の気配を感じ、はじかれたように振り向いた。
「何を驚いているのですか? この私を誘い出すために、わざわざこんな場所まで一人できたのでしょう?」
揺るがぬ自信に満ちた言葉は、事実とは異なっていても、それを身分に物言わせて相手に押し付ける事のできる侯爵家嫡男の横暴のなせる業だった。
「私があなたと? お戯れを! 私は、月を見に外へ出ただけです。そろそろ戻らないと、家族が心配しますから」
アレクサンドラはフランツを無視して屋敷の方に戻ろうとしたが、不躾にもフランツはアレクサンドラの腕をしっかりと掴んで引き寄せた。
「な、なにを!」
振り払おうにも、がっちりと掴まれた腕はびくとも動かなかった。
「お放しください!」
ドレス姿でどれほど語気を荒げても、フランツの笑みを誘うだけでアレクシスの時のようにはいかない。
何とか掴まれた腕を引き戻そうと力を入れても、ビクともしなかった。
(・・・・・・・・どういうこと? アントニウス様が相手ならまだしも、フランツなんて、何度も剣を交えて、一度は私が命を奪えるチャンスすらあったのに、これがあのフランツ? 何か、私が知らない間に特殊な訓練でもしたっていうの?・・・・・・・・)
動揺を見せるアレクサンドラにフランツが距離を縮めた。
「残念ながら、私はあなたの従弟のアレクシスのようなモヤシではありませんよ」
本人のいない場所で相手を貶める、アレクサンドラの一番嫌いなタイプの集大成と言えるのが、このフランツだった。
「ジャスティーヌに付きまとい、アレクシスに決闘で負けた方の言葉とは思えませんわね」
言ってしまってから、アレクサンドラは自分の言葉が火に油を注ぐ結果になったことを思い知らせた。
「あの、忌々しい平民め!」
言うなり、フランツはアレクサンドラを強引に抱き寄せた。
「いや!」
必死に腕を突っ張ってフランツを追いやろうとしても、フランツの力の前にアレクサンドラの腕はじわりじわりと腕力に屈して肘が曲がってしまう。それと同時に、フランツのにやけた嫌らしい笑みがじわりじわりと近づいてくる。
「おとなしく言うことを聞けば、いい思いをさせてやると言ってるんだよ。どう頑張ったところで王子はこの国に一人、瓜二つとはいえ、殿下が選んだのはジャスティーヌ。そうなれば、侯爵家との縁組は願ってもない良縁だろう?」
完全に隣国イルデランザ公国の公爵家の嫡男にして、ファーレンハイト伯爵であるアントニウスの事を無視する発言に、アレクサンドラはアントニウスが話していた権力に妄執し、目先の利益や既得権益を守る事だけに執着し、自領の民の暮らしの安寧など考えることもない、貴族階級にあぐらし、貴族の貴族たる所以である、自領の民の平和と安寧を守るという責務を忘れた者たちの姿を目の当たりにしている気がした。
「いい思いですって? あなたの家が豊かなのは、民を虐げ、搾取しているからでしょう!」
アレクサンドラの言葉に、フランツは笑いを堪えるのに耐えかねたと言わんばかりに大声で笑い始めた
「何を言い出すかと思えば。民の暮らしだと? 奴らはせっせと働いて、税を払うためにいるのだ。税を払うためにいる民から税を取って何が悪い? 税の徴収だって、死なない程度には、手心を加えてやっている」
ありがたく思えと言わんばかりのフランツの言葉に、アレクサンドラは背筋が凍るような恐怖を覚えた。
「お前の父の様に、民くさの命にばかりこだわるから、年頃の娘が行き遅れるのだ」
「なっ・・・・・・」
「貴族に生まれたのだ。良い物を着、良いものを食べ、良い酒を飲む。これは我ら高貴な命に許された特権だ。それを民の生活だの、民の命だのと、つまらぬ事にこだわるから、貴族とも思えないような暮らし向きになるのだ。この私が、お前を立派なレディにしてやる。良い物を食べ、良い物を着、いい酒を飲み、立派なレディにな・・・・・・」
アレクサンドラはフランツが正気なのかと不安になった。
「お放しください!」
アレクサンドラが再び声をあげると、フランツは忌々しそうにアレクサンドラの事を見つめた。
「貧乏伯爵家の娘がいい気になるなよ! お前程度の家柄の娘であれば、力づくで俺の物にしたところで、何の問題にもならないという事を思い知らせてやろうか?」
力づくで唇を奪おうとするフランツに、アレクサンドラは必死に体をよじって抵抗した。
「だ、誰か! 誰か!」
声を限りに助けを求めたその時、ガサリという枝と枝が擦れ合う音がした。
アレクサンドラの胸に、もしやアントニウスが戻ったのではという淡い期待が広がった。
そして、はっきりと夜目にも上質の男物とわかる靴がアレクサンドラの視界に入り、強い力でアレクサンドラとフランツの体は強引に引き離された。
「無礼な、なにを・・・・・・」
意義を唱えるフランツの言葉が尻すぼみに小さくなっていった。
その様子から、相手がアントニウスではないと、侯爵家の嫡男であるフランツが焦るほどの身分にある相手だと、アレクサンドラにも察することができた。
「フランツ・カルザス、もう少し見どころのある若者かと思っていたが、全く失望した。世の許しなく、今後二度とバルザック侯爵家の者がアーチボルト伯爵家の者に話しかけることを禁ずる。わかったら、おのれの愚行を恥じ、そなたの父に事の顛末を報告するがよい。この事は、明日の朝一番に、勅命として発する」
顔面蒼白になり、ぶるぶると震えながらも、フランツは深々とお辞儀をしてからその場を逃げるようにして去って行った。
アレクサンドラが顔をあげると、優しく微笑むリカルド三世の姿があった。
「お助けいただき、ありがとうございます」
アレクサンドラは慌ててお辞儀をしながら言った。
「そなたと言葉を交わすのは、あの謁見の日以来だったな。まるで自分の娘の様に感じるのは、我が片腕にして、我が心の友、ルドルフの娘故か、それとも、そなたがジャスティーヌに瓜二つだからか・・・・・・。まあよい。あの無礼者の事は心配せずとも良い。二度と、そなたのそばには近づかせない」
リカルド三世は言うと、優しい瞳でアレクサンドラの事を包むように見つめた。
「世も、ここから見る月が気に入っておる。今宵は、ロベルトがジャスティーヌにバラを贈るというので、忍んでここまで来たのだが、まさか、あのような現場に出くわすとは思ってもいなかった。他言せぬ故、心配はいらない」
何もかもが突然の事で、アレクサンドラは言葉がのどに詰まってしまったように、何も返事をすることができなかった。
「世は、静かに東屋に戻り月を眺めるゆえ、世がここにいることは他言無用じゃ」
リカルド三世は言うと、アレクサンドラの返事を待たず、東屋の方へと歩き始めた。
アレクサンドラは、その背中に深々と一礼すすると、屋敷の中へ戻り、広間へと歩を進めた。
リカルド三世は、父であるアーチボルト伯爵の事を『友』と呼んだ。そのことが、とても誇らしく、貧乏な生活をしても、民の暮らしを大切にし、一番に領民の事を考える父の事が誇らしく思えた。