初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
王太子ロベルトとジャスティーヌの正式な婚約が発表されると、イルデランザ開戦の噂で沈んでいたエイゼンシュタイン国内にも活気が戻り始めた。
それと同時に、ジャスティーヌが王宮にはいらず、通いで見習いをすることに社交界ではいろいろな噂がまことしやかに囁かれたが、それらの噂は、ロベルトとジャスティーヌの仲睦まじい姿で全て単なる憶測として、すぐに忘れ去られて行った。
一人、婚約の破棄を心に決め、勝手に蟄居していたジャスティーヌも婚約発表とともに、あちこちの夜会やサロンに招かれ、更に日中は王宮での見習いで忙しく、アレクサンドラも朝晩の挨拶を交わす程度しか顔を見ることがなくなっていった。
一人、屋敷に残ることが多くなったアレクサンドラは、再びライラを伴い毎日のように教会に出かけるようになった。
その姿にアーチボルト伯爵夫妻は、いよいよアレクサンドラが修道院に入ろうとしているのではないかと焦りを感じたが、アレクサンドラには憂いはなく、どちらかと言えば生き生きとしていて、更には本来伯爵家の令嬢が足を運ぶ場所ではない、階下の厨房にまで足を踏み入れ、料理長から料理を習うようになった。
アレクサンドラとしては、いずれ、アーチボルト伯爵家の家督を養子が継ぐ際に、自分というお荷物が居ては迷惑だろうと、所領内のマナーハウスを一つ貰い、一人自立して生活していかれるようにしようという考えだったが、アレクサンドラの行動は両親だけでなく、使用人たちも大きく困惑させた。
それでも、アレクサンドラは毎日教会に通い、懺悔するのではなく、ただただ、アントニウスの無事を祈った。一日でも欠かしたら、アントニウスの身に危険が及ぶような気がして、始めたら一日も休むことができなくなったというのが本当のところだった。
そんなアレクサンドラに見かねたルドルフがアレクサンドラを執務室へと呼んだ。
「どうなさったのお父様? 私、これから教会に参るところですの」
すっかりレディとなったアレクサンドラは、まるでジャスティーヌがアレクサンドラのフリをしているかのように見えたが、ジャスティーヌが王宮に行っている今、目の前にいるのがジャスティーヌではなく、アレクサンドラであることに、ルドルフは改めて感動した。
昔のアレクサンドラであれは、目にも露わなブラウスの第一ボタンを開けて胸元が見えてしまわないのかルドルフが心配するような姿で、脚の線がはっきり見えるピタッとしたトラウザー姿に似合う男言葉で部屋に入ってきたものだったが、今となっては、それが本当にアレクサンドラだったのか、アレクサンドラによく似た誰か別の人間だったのか、それこそ、妖精にでも夢を見させられていたのではないかと、ルドルフですら思うくらい、アレクサンドラとアントニウスは異なる人間に見えた。
「そ、そのことだ。以前も、お前は足しげく教会に通っていたが、まさか、その、若い神父に逢うために教会に足が向いているなどという事はないだろうな?」
基本、神父は一生独身で過ごすものとされているが、地方に赴く神父の中には、許可を得て妻を得るものもいる。それを考えると、アレクサンドラが急に料理を習い始めたことが若い神父との逃避行を計画しているのではないかという不安を掻き立てていた。
「お父様? なんてことを! フェルナンド神父に失礼ですわ。神父は、信徒を正しく導くため、日夜努力を重ねられていらっしゃるのに」
アレクサンドラが言い返すと、ルドルフは『日夜』という言葉に引っ掛かりを覚えた。
「なぜ、お前が日夜努力していることを知っている? 教会に行くのは、昼間だけであろう?」
父とは思えない、悪く言えば『下種の勘繰り』ともとれる発言に、アレクサンドラが目尻を吊り上げた。
「お父様! 言葉のあやです。毎日、子供たちに勉学を教え、自ら神学極めようとされていらっしゃるのですから、当然、日夜努力しているはずではありませんか」
「では、なぜお前は、そんなにその神父の事を詳しく知っている?
「お父様こそ、なぜ所領に新しく赴任してきたフェルナンド神父の事をお知りになろうとなさらないのですか?」
アレクサンドラの問いにルドルフは言葉を飲んだ。
「そ、その、新しい神父が赴任する前に、その人となりは、連絡を受けている。それ以上に、私が神父の事を知る必要はない。所領内にあるとはいえ、教会は教区の管轄下にある」
「私は、そんな方にはまったことを窺っているのではありません。どのような神父が、お父様の治める民を教え導いているか、お父様はご心配ではないのですか?」
「それは、教区の管轄に任せている。私が知りたいのはだな・・・・・・」
言ってしまってから、ルドルフは継ぐ言葉を探した。
「何をお知りになられたいのですか?」
グイと、距離を縮めて迫るアレクサンドラに、ルドルフは『やはり双子だな』とジャスティーヌの迫り方を思い出して微笑みそうになった。
「お前が、お前が何をしに毎日教会に通っているかだ」
何とか言い切ったルドルフに、アレクサンドラはキョトンとしたような、不思議そうな表情を浮かべた。
「そんなことをお知りになられたかったのですか?」
そんなことと言われてしまえば、その程度の事であるが、嫁入り前の、しかも非常にデリケートな立場にある娘を持つ父親としては、当たり前の心配だった。
「そ、そうだ。何か、問題があるか?」
「いえ、なんの問題もございませんが、それならば、最初からそう言っていただければ、よろしいのに・・・・・・。アントニウス様の安全をお祈りに参っているだけでございます」
アレクサンドラの答えに、今度はルドルフがポカンとした表情を浮かべる番だった。
「あっ?」
突拍子もない声だけが発せられ、ルドルフはアレクサンドラがアントニウスの安全を祈る事の考えに入れていなかった自分の間抜けさを呪った。
「それは理由がついたとしても、料理を習い始めた理由がわからぬ」
なかば自棄になり、思ったままの事を口にすると、アレクサンドラはクスリと笑った。
「お父様、もしかして、私がフェルナンド神父と駆け落ちをするとでも心配なさっていらしたのですか?」
ズバリと言い当てられ、ルドルフは口をパクパクさせそうになるのを堪えてぎゅっと引き結んだ。
「そう思われも仕方あるまい」
憮然としてルドルフが言っても、アレクサンドラは笑みを絶やさなかった。
「私が料理を学んでおりますのは、いずれ、お父様が養子を迎えられ、その方がアーチボルト伯爵家の後継者になられる時、私がこの屋敷に居てはやりづらいだろうと思ったからです。お父様から、古いマナーハウスの一つでも戴き、手入れをしながら一人で暮らすには料理も必要ですし、それに、修道女になるにも料理は必要だと、フェルナンド神父が教えてくださいました」
アレクサンドラの答えは、ルドルフが全く想像したことのなかった、伯爵家存続のために養子を迎えるという現実な答えを含んでいた。
確かに、アーチボルト伯爵家を断絶させないためには、息子のいないルドルフは親族から適当な男子を養子に迎える必要がある。養子を迎えないのであれば、アレクサンドラに婿を取らなくてはならないが、さすがに、それはアントニウスの手前憚られる。そうなると、アレクサンドラの言うとおり、親族から養子を迎え、アーチボルト伯爵家の存続を図るしかない。しかし、そこまでアレクサンドラが考えていたことに、ルドルフは驚愕を覚えた。
「例え、養子を貰ったとしても、お前は私の娘。そのような暮らしをさせるわけにはいかない」
ルドルフの言葉にアレクサンドラは少し瞳を伏せた。
「私が男の子だったら、お父様にご苦労をおかけしないで済んだのに。申し訳ありません」
「そんなことは、私は一度も考えたことがない。大体、お前がアレクシスになりたいといったから許したのであって、私はアレクシスが欲しいと望んでいたわけではない。それよりも、お前が本当に良い方と縁づいて幸せになることが私の願いだ」
「ありがとうございます、お父様。どうかご心配なさらずに。私は、自立できるように、何でも自分でできるようになりたいだけでございます」
静かな落ち着いた声で言うアレクサンドラに、ルドルフは頷いた。
「それは問題ない。だが、外ではあまり軽率な行動はとらないように。ジャスティーヌの婚約発表以来、お前の動向を窺うものが増えてきている上に、先日、陛下から勅命が発され、バルザック侯爵以下、一族が蟄居同然だ。しかも、陛下から直々にフランツがお前に近付くことを禁止すると申し渡されている。侯爵の領地が剥奪されるだの、侯爵位が召し上げられるなど、様々な憶測が沸き起こっている」
ルドルフは困ったように呟いた。
バルザック侯爵家は、歴史のそれなりに古い侯爵家ではあるが、歴史という意味では実はアーチボルト伯爵家には遠く及ばない。しかし、侯爵家という地位と、領民に課した重税で豪奢な生活を送る公爵家の面々に対して、リカルド三世の憶えはただでさえよくない。しかし、覚えが良くないからと言って、簡単に侯爵家を取りつぶす事はできない。しかし、今回のような王族に連なる一族となるアーチボルト伯爵家の令嬢であり、更に王太子妃の双子の妹であるアレクサンドラに非道な行いをしたとあれば、国王の逆鱗に触れたとして、侯爵家を取りつぶす事もできなくはない。逆に言えば、盲目的に侯爵家取りつぶしに突進するリカルド三世をなだめるのに、ルドルフは疲労困憊していると言ってもよかった。しかも、自分の娘に狼藉を働いた馬鹿者を擁護しなくてはいけないというのも、はなはだ腹立たしい限りだった。
「とにかく、お前は、あまり人目に付くような行動は慎むように」
ルドルフの言葉に、アレクサンドラは頷いた。
無言の指示で、アレクサンドラは『失礼いたします』と一声かけてルドルフの執務室を後にした。そして、その足で使用人用の階段を降りると、キッチンメイドに倣って自分も白いエプロンを身に着けた。
「お嬢様!」
ライラがアレクサンドラの姿を見つけて声をあげた。
「大丈夫よ。お父様にもダメだとは叱られなかったわ」
アレクサンドラは言うと、わき目も降らず、テキパキと野菜の下ごしらえをしているキッチンメイドの様子を見ながら、自分も比較的大きなジャガイモを手に取った。
アレクサンドラの経験から、小さすぎるものは手を切りそうになるし、大き過ぎるものはとり落してしまうので、ぴったり手にはまる大きめのものを選ぶのが今の自分の実力似合っていると理解していた。
キッチンメイドに倣い、今晩のジャガイモのスープの準備を始めるアレクサンドラに、ライラは大きなため息をつくと、アレクサンドラの手があれないように手入れをする準備を始めた。
もともと、男装をして剣を振り回していたアレクサンドラの手には、レディにはない剣を持つもの独特の剣だこがあり、それをなくすためにいろいろなアロマオイルでのマッサージや、ハンドバス、ハンドクリームなどを使い、やっとのことで美しいレディの手に戻したというのに、このキッチンメイド見習のような日々のせいでアレクサンドラの手が荒れ、毎晩ライラは寝る前のアレクサンドラの手をアロマオイルでマッサージし、高価なクリームを塗ってシルクの手袋をはめて休む様にさせていた。
屋敷に努めて以来、ずっと水仕事らしい水仕事なとしてこなかったライラの手も、レディの手ほどではないが、荒れた手でドレスのレースをひっかけたり、お嬢様の肌に傷をつけてはいけないと、それなりに心を配り、手入れをしてきたというのに、肝心のアレクサンドラの手が荒れてガサガサにでもなったら、お嬢様付きのメイドとしての立つ瀬がない。しかし、こんなことにまで思いが回らないアレクサンドラは、一人で暮らせるようにならなくてはいけないと、洗濯婦の物真似まではじめようとし、さすがにアリシアに洗濯婦の仕事を学ぶことを禁止されたアレクサンドラは、少し不満そうではあったが、飽きらめて思い留まることにした。
ライラとしては、キッチンメイドの真似も止めさせるべきだと進言したのだが、アリシアがそれくらいは厳しさがわかるまで続けさせてもいいというので、薄暗い廊下から手を切らないようにと祈りつつ、アレクサンドラの一挙手一投足を窺い、悲鳴のような声が聞こえるたびに心臓を鷲掴みにされるような恐怖に襲われていた。
それと同時に、ジャスティーヌが王宮にはいらず、通いで見習いをすることに社交界ではいろいろな噂がまことしやかに囁かれたが、それらの噂は、ロベルトとジャスティーヌの仲睦まじい姿で全て単なる憶測として、すぐに忘れ去られて行った。
一人、婚約の破棄を心に決め、勝手に蟄居していたジャスティーヌも婚約発表とともに、あちこちの夜会やサロンに招かれ、更に日中は王宮での見習いで忙しく、アレクサンドラも朝晩の挨拶を交わす程度しか顔を見ることがなくなっていった。
一人、屋敷に残ることが多くなったアレクサンドラは、再びライラを伴い毎日のように教会に出かけるようになった。
その姿にアーチボルト伯爵夫妻は、いよいよアレクサンドラが修道院に入ろうとしているのではないかと焦りを感じたが、アレクサンドラには憂いはなく、どちらかと言えば生き生きとしていて、更には本来伯爵家の令嬢が足を運ぶ場所ではない、階下の厨房にまで足を踏み入れ、料理長から料理を習うようになった。
アレクサンドラとしては、いずれ、アーチボルト伯爵家の家督を養子が継ぐ際に、自分というお荷物が居ては迷惑だろうと、所領内のマナーハウスを一つ貰い、一人自立して生活していかれるようにしようという考えだったが、アレクサンドラの行動は両親だけでなく、使用人たちも大きく困惑させた。
それでも、アレクサンドラは毎日教会に通い、懺悔するのではなく、ただただ、アントニウスの無事を祈った。一日でも欠かしたら、アントニウスの身に危険が及ぶような気がして、始めたら一日も休むことができなくなったというのが本当のところだった。
そんなアレクサンドラに見かねたルドルフがアレクサンドラを執務室へと呼んだ。
「どうなさったのお父様? 私、これから教会に参るところですの」
すっかりレディとなったアレクサンドラは、まるでジャスティーヌがアレクサンドラのフリをしているかのように見えたが、ジャスティーヌが王宮に行っている今、目の前にいるのがジャスティーヌではなく、アレクサンドラであることに、ルドルフは改めて感動した。
昔のアレクサンドラであれは、目にも露わなブラウスの第一ボタンを開けて胸元が見えてしまわないのかルドルフが心配するような姿で、脚の線がはっきり見えるピタッとしたトラウザー姿に似合う男言葉で部屋に入ってきたものだったが、今となっては、それが本当にアレクサンドラだったのか、アレクサンドラによく似た誰か別の人間だったのか、それこそ、妖精にでも夢を見させられていたのではないかと、ルドルフですら思うくらい、アレクサンドラとアントニウスは異なる人間に見えた。
「そ、そのことだ。以前も、お前は足しげく教会に通っていたが、まさか、その、若い神父に逢うために教会に足が向いているなどという事はないだろうな?」
基本、神父は一生独身で過ごすものとされているが、地方に赴く神父の中には、許可を得て妻を得るものもいる。それを考えると、アレクサンドラが急に料理を習い始めたことが若い神父との逃避行を計画しているのではないかという不安を掻き立てていた。
「お父様? なんてことを! フェルナンド神父に失礼ですわ。神父は、信徒を正しく導くため、日夜努力を重ねられていらっしゃるのに」
アレクサンドラが言い返すと、ルドルフは『日夜』という言葉に引っ掛かりを覚えた。
「なぜ、お前が日夜努力していることを知っている? 教会に行くのは、昼間だけであろう?」
父とは思えない、悪く言えば『下種の勘繰り』ともとれる発言に、アレクサンドラが目尻を吊り上げた。
「お父様! 言葉のあやです。毎日、子供たちに勉学を教え、自ら神学極めようとされていらっしゃるのですから、当然、日夜努力しているはずではありませんか」
「では、なぜお前は、そんなにその神父の事を詳しく知っている?
「お父様こそ、なぜ所領に新しく赴任してきたフェルナンド神父の事をお知りになろうとなさらないのですか?」
アレクサンドラの問いにルドルフは言葉を飲んだ。
「そ、その、新しい神父が赴任する前に、その人となりは、連絡を受けている。それ以上に、私が神父の事を知る必要はない。所領内にあるとはいえ、教会は教区の管轄下にある」
「私は、そんな方にはまったことを窺っているのではありません。どのような神父が、お父様の治める民を教え導いているか、お父様はご心配ではないのですか?」
「それは、教区の管轄に任せている。私が知りたいのはだな・・・・・・」
言ってしまってから、ルドルフは継ぐ言葉を探した。
「何をお知りになられたいのですか?」
グイと、距離を縮めて迫るアレクサンドラに、ルドルフは『やはり双子だな』とジャスティーヌの迫り方を思い出して微笑みそうになった。
「お前が、お前が何をしに毎日教会に通っているかだ」
何とか言い切ったルドルフに、アレクサンドラはキョトンとしたような、不思議そうな表情を浮かべた。
「そんなことをお知りになられたかったのですか?」
そんなことと言われてしまえば、その程度の事であるが、嫁入り前の、しかも非常にデリケートな立場にある娘を持つ父親としては、当たり前の心配だった。
「そ、そうだ。何か、問題があるか?」
「いえ、なんの問題もございませんが、それならば、最初からそう言っていただければ、よろしいのに・・・・・・。アントニウス様の安全をお祈りに参っているだけでございます」
アレクサンドラの答えに、今度はルドルフがポカンとした表情を浮かべる番だった。
「あっ?」
突拍子もない声だけが発せられ、ルドルフはアレクサンドラがアントニウスの安全を祈る事の考えに入れていなかった自分の間抜けさを呪った。
「それは理由がついたとしても、料理を習い始めた理由がわからぬ」
なかば自棄になり、思ったままの事を口にすると、アレクサンドラはクスリと笑った。
「お父様、もしかして、私がフェルナンド神父と駆け落ちをするとでも心配なさっていらしたのですか?」
ズバリと言い当てられ、ルドルフは口をパクパクさせそうになるのを堪えてぎゅっと引き結んだ。
「そう思われも仕方あるまい」
憮然としてルドルフが言っても、アレクサンドラは笑みを絶やさなかった。
「私が料理を学んでおりますのは、いずれ、お父様が養子を迎えられ、その方がアーチボルト伯爵家の後継者になられる時、私がこの屋敷に居てはやりづらいだろうと思ったからです。お父様から、古いマナーハウスの一つでも戴き、手入れをしながら一人で暮らすには料理も必要ですし、それに、修道女になるにも料理は必要だと、フェルナンド神父が教えてくださいました」
アレクサンドラの答えは、ルドルフが全く想像したことのなかった、伯爵家存続のために養子を迎えるという現実な答えを含んでいた。
確かに、アーチボルト伯爵家を断絶させないためには、息子のいないルドルフは親族から適当な男子を養子に迎える必要がある。養子を迎えないのであれば、アレクサンドラに婿を取らなくてはならないが、さすがに、それはアントニウスの手前憚られる。そうなると、アレクサンドラの言うとおり、親族から養子を迎え、アーチボルト伯爵家の存続を図るしかない。しかし、そこまでアレクサンドラが考えていたことに、ルドルフは驚愕を覚えた。
「例え、養子を貰ったとしても、お前は私の娘。そのような暮らしをさせるわけにはいかない」
ルドルフの言葉にアレクサンドラは少し瞳を伏せた。
「私が男の子だったら、お父様にご苦労をおかけしないで済んだのに。申し訳ありません」
「そんなことは、私は一度も考えたことがない。大体、お前がアレクシスになりたいといったから許したのであって、私はアレクシスが欲しいと望んでいたわけではない。それよりも、お前が本当に良い方と縁づいて幸せになることが私の願いだ」
「ありがとうございます、お父様。どうかご心配なさらずに。私は、自立できるように、何でも自分でできるようになりたいだけでございます」
静かな落ち着いた声で言うアレクサンドラに、ルドルフは頷いた。
「それは問題ない。だが、外ではあまり軽率な行動はとらないように。ジャスティーヌの婚約発表以来、お前の動向を窺うものが増えてきている上に、先日、陛下から勅命が発され、バルザック侯爵以下、一族が蟄居同然だ。しかも、陛下から直々にフランツがお前に近付くことを禁止すると申し渡されている。侯爵の領地が剥奪されるだの、侯爵位が召し上げられるなど、様々な憶測が沸き起こっている」
ルドルフは困ったように呟いた。
バルザック侯爵家は、歴史のそれなりに古い侯爵家ではあるが、歴史という意味では実はアーチボルト伯爵家には遠く及ばない。しかし、侯爵家という地位と、領民に課した重税で豪奢な生活を送る公爵家の面々に対して、リカルド三世の憶えはただでさえよくない。しかし、覚えが良くないからと言って、簡単に侯爵家を取りつぶす事はできない。しかし、今回のような王族に連なる一族となるアーチボルト伯爵家の令嬢であり、更に王太子妃の双子の妹であるアレクサンドラに非道な行いをしたとあれば、国王の逆鱗に触れたとして、侯爵家を取りつぶす事もできなくはない。逆に言えば、盲目的に侯爵家取りつぶしに突進するリカルド三世をなだめるのに、ルドルフは疲労困憊していると言ってもよかった。しかも、自分の娘に狼藉を働いた馬鹿者を擁護しなくてはいけないというのも、はなはだ腹立たしい限りだった。
「とにかく、お前は、あまり人目に付くような行動は慎むように」
ルドルフの言葉に、アレクサンドラは頷いた。
無言の指示で、アレクサンドラは『失礼いたします』と一声かけてルドルフの執務室を後にした。そして、その足で使用人用の階段を降りると、キッチンメイドに倣って自分も白いエプロンを身に着けた。
「お嬢様!」
ライラがアレクサンドラの姿を見つけて声をあげた。
「大丈夫よ。お父様にもダメだとは叱られなかったわ」
アレクサンドラは言うと、わき目も降らず、テキパキと野菜の下ごしらえをしているキッチンメイドの様子を見ながら、自分も比較的大きなジャガイモを手に取った。
アレクサンドラの経験から、小さすぎるものは手を切りそうになるし、大き過ぎるものはとり落してしまうので、ぴったり手にはまる大きめのものを選ぶのが今の自分の実力似合っていると理解していた。
キッチンメイドに倣い、今晩のジャガイモのスープの準備を始めるアレクサンドラに、ライラは大きなため息をつくと、アレクサンドラの手があれないように手入れをする準備を始めた。
もともと、男装をして剣を振り回していたアレクサンドラの手には、レディにはない剣を持つもの独特の剣だこがあり、それをなくすためにいろいろなアロマオイルでのマッサージや、ハンドバス、ハンドクリームなどを使い、やっとのことで美しいレディの手に戻したというのに、このキッチンメイド見習のような日々のせいでアレクサンドラの手が荒れ、毎晩ライラは寝る前のアレクサンドラの手をアロマオイルでマッサージし、高価なクリームを塗ってシルクの手袋をはめて休む様にさせていた。
屋敷に努めて以来、ずっと水仕事らしい水仕事なとしてこなかったライラの手も、レディの手ほどではないが、荒れた手でドレスのレースをひっかけたり、お嬢様の肌に傷をつけてはいけないと、それなりに心を配り、手入れをしてきたというのに、肝心のアレクサンドラの手が荒れてガサガサにでもなったら、お嬢様付きのメイドとしての立つ瀬がない。しかし、こんなことにまで思いが回らないアレクサンドラは、一人で暮らせるようにならなくてはいけないと、洗濯婦の物真似まではじめようとし、さすがにアリシアに洗濯婦の仕事を学ぶことを禁止されたアレクサンドラは、少し不満そうではあったが、飽きらめて思い留まることにした。
ライラとしては、キッチンメイドの真似も止めさせるべきだと進言したのだが、アリシアがそれくらいは厳しさがわかるまで続けさせてもいいというので、薄暗い廊下から手を切らないようにと祈りつつ、アレクサンドラの一挙手一投足を窺い、悲鳴のような声が聞こえるたびに心臓を鷲掴みにされるような恐怖に襲われていた。