初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
 軍より知らせが入り、アントニウスが明日、意識の戻らないままの帰宅をすることがわかり、ザッカローネ公爵邸は緊張に包まれた。
 アントニウスの部屋はマリー・ルイーズの指示に基づき、綺麗に磨き上げられ、アレクサンドラが世話をしやすいようにと、アレクサンドラの部屋もアントニウスの部屋の隣に移動することになった。そして、アントニウスの部屋を挟んで反対側には、大公宮殿から差し向けられた侍医が滞在することになった。

 新しい部屋に移動したアレクサンドラは、ライラとソフィアに命じて、アントニウスの看病にふさわしい飾りの少ない洋服の準備をさせた。

「お嬢様、こちらでよろしいでしょうか?」
 準備してきたドレスをアレクサンドラに見せてライラは確認した。
「そうね、青よりも明るい色が良いでしょう」
 アレクサンドラは言うと、ライラの用意した薄い桃色をしたシンプルなドレスに頷いてみせた。
「お昼には到着されるとのことです」
「ありがとう、ソフィア」
 翌日の支度が万全であることを確認すると、アレクサンドラはベッドに入り、休むことにした。
 明日になれば、アントニウスに会うことができるという喜びと、意識が戻らないという怪我の状態を考えると、自分に何ができるだろうかと、急に不安に襲われたりもしたが、とりあえず、体を休めなくてはと、アレクサンドラは必死に眠りについた。


 翌朝、イルデランザに来た翌朝から変わらない、イルデランザ式のコーヒーだけと言う朝食にまだ慣れないアレクサンドラのために、ソフィアが軽食のサンドイッチを用意してくれ、アレクサンドラは自室でそれを食べながらアントニウスが帰宅した時の事を思って過ごした。
 まだお昼には時間があるという早い時間に、にわかに屋敷の中が騒がしくなり、速足でソフィアがアレクサンドラの部屋へとやってきた。
「間もなく、アントニウス様がお着きになられます」
 ソフィアの言葉に、アレクサンドラは立ち上がると先導するソフィアに続き、玄関のホールへと歩を進めた。

 アレクサンドラが階段の上に着くと、既にマリー・ルイーズは玄関ホールの真ん中に立ち、アントニウスの到着を待っていた。
 本来ならば、ファーレンハイト伯爵の爵位を継承したアントニウスの出迎えは、マリー・ルイーズの出迎えと同じか、それよりも大掛かりなものであるべきだったが、負傷して意識も戻らない状態での帰宅という事から、使用人達が一列に並んでの出迎えのような、大げさな事は何も用意されていなかった。
 しばらくして、馬車の車輪が石畳を打つ音が響くと、すぐに家令が玄関の扉を開けた。
 普通よりも大きな馬車が横付けされ、扉が開くと戦場から搬送されたというのがありありとわかる、担架のようなものに寝かされたアントニウスが馬車から降ろされた。
 付き添っていたと思われる軍服の男性は家令に歩み寄ると、お辞儀ではなく敬礼した。
「自分は、メルクーリ大尉付き従卒、ヴァシリキ・カストリア軍曹であります。ヨルギア・コリントス中将閣下のご命令により、メルクーリ大尉をお連れ致しました」
 微動だにせず、敬礼したまま言うと、ヴァシリキは上げていた手を下ろした。
 家令は『お勤め、ご苦労様でございます』と言っただけで、それ以上何も言わず、マリー・ルイーズに対応を委ねた。
「カストリア軍曹、私が公爵夫人のマリー・ルイーズです。息子を無事帰宅させてくださり、ありがとうございます」
 マリー・ルイーズの言葉に、ヴァシリキが恐縮したように更に背筋を伸ばした。しかし、マリー・ルイーズの後ろに隠れるようにして立っているアレクサンドラを見つけると、ヴァシリキは『そちらは?』と控えめに尋ねた。
 ヴァシリキの脇をアントニウスの担架が通り、脇に控えていた侍医に付き添われて上階の部屋へと運ばれて行った。
「こちらは、エイゼンシュタインのアーチボルト伯爵家のアレクサンドラ嬢です。それが何か?」
 マリー・ルイーズの言葉を聞きながら、ヴァシリキはアレクサンドラの事をじっと見つめた。
「大変失礼いたしました。大尉が、毎日お手紙を書かれていたお相手かと・・・・・・」
 ヴァシリキの言葉に、アレクサンドラは思わず一歩踏み出した。
 すると、脇に控えていたミケーレが口を開いた。
「あなたが、アントニウス様のお手紙を丁寧に包んで送ってくださっていたのですね。お送りいただいたお手紙は、私が滞りなく、お相手の方にお送りさせて戴きました」
 屋敷の者に行儀見習いと話してある手前、ここでアレクサンドラがアントニウスの愛しの君であることを公にすることは望ましくないとの判断からだった。
「ありがとうございます。大尉は、毎日、とても大切にお手紙を書かれていらっしゃいました」
「では、自分はこのまま隊に戻らせて戴きます」
 ヴァシリキはマリー・ルイーズに向かって敬礼すると、アントニウスを寝室へと運び終わり、下僕に案内されて階段を降りてきた医療班に続いて屋敷の外へと出ていった。
 ヴァシリキを見送り、家令が玄関の扉を閉めるのを待ってから、マリー・ルイーズはアレクサンドラの方に向き直った。
「アレクサンドラさん、ほんの十分でよいので、私にアントニウスと二人だけで再会の時間を持たせてもらえますか?」
 マリー・ルイーズの言葉にアレクサンドラは大きく頷いた。
「当然でございます。私は、お世話に伺っただけでございます」
 アレクサンドラの答えに、マリー・ルイーズは速足で階段を上り上階に姿を消した。
「一度、部屋に戻りましょう」
 アレクサンドラは言うと、ライラとソフィアを伴い、新しい自室へと戻った。


 隣の部屋にアントニウスが休んでいるかと思うと、アレクサンドラは『やっとここまで来た』と、感慨深くなった。あの日の唐突な別れに、アントニウスが残した上着を胸に抱き、なんどアントニウスの事を考えただろうかと思うと、涙がこみ上げてきそうになった。しかし、それだからと言って、母と子の再会を邪魔する気など毛頭なかった。
 しばらくしてからノックがあり、マリー・ルイーズが扉を開けた。
「アレクサンドラさん、お時間を戴いてしまって、ごめんなさいね。アントニウスに会ってあげてちょうだい。きっと、喜ぶわ」
 マリー・ルイーズはそれだけ言うと、アレクサンドラの部屋には入らず、そのまま姿を消した。
 アレクサンドラはすぐに隣の部屋へ行こうとしたが、ライラがすぐに後ろに従った。
「お嬢様、御一緒致します」
「でも、ライラ・・・・・・」
「いくら意識がないとはいえ、アントニウス様は男性でございます。未婚のお嬢様をおひとりで男性のお部屋に行かせるわけには参りません」
 きっぱりとしたライラの言葉に、アレクサンドラはアレクシスとしてアントニウスの屋敷に押しかけていったことや、二人きりで一時を過ごした図書室でのことを思い出した。
「わかりました。ライラ、それからソフィアもついていらっしゃい」
 アレクサンドラは言うと、アントニウスの待つ部屋へと向かった。

 廊下を数歩歩くだけの距離にある扉を一応ノックして開けると、ベッドから少し離れた場所にある窓から入るカーテン越しの明かりは穏やかで、柔らかい光がベッドに横たわるアントニウスの上に優しく降り注いでいた。
 アレクサンドラはベッドに歩み寄ると、横たわるアントニウスの事を見つめた。
 アントニウスの顔色は悪く、血の気のないその顔は、あの日アレクサンドラに別れを告げに来たアントニウスとは別人のようだった。
 アレクサンドラはベッドの脇に膝をつこうとしたが、すぐにソフィアが椅子を差し出してくれたので、アレクサンドラは勧められるまま椅子に腰を下ろした。
 侍医が脈をとるために出していたと思われるアントニウスの手を握ると、アレクサンドラは小さな声で語りかけた。
「アントニウス様、アレクサンドラです。お体が心配で、エイゼンシュタインから参りました。私がお傍にいることで、アントニウス様が少しでも早く目覚めて下されば嬉しいのですが、私には医術の心得も、看病の心得もございませんから、ただ、こうしてアントニウス様のお手を握ることしかできません。ですが、私はずっとアントニウス様のお傍におります。父が、ジャスティーヌとロベルト殿下の婚約が正式なものとなり、私にもアントニウス様の隣にいることが許されるようになったと、そう教えてくださいました。ですから、私は、こうしてお傍におります。例え、お傍を離れても、隣の部屋に寝起きしております。ですから、どうか、どうか早く目を醒ましてください。・・・・・・アントニウス様・・・・・・、お目を開けてくださいませ・・・・・・」
 アレクサンドラの囁きが聞こえてしまわないように、ライラとソフィアはベッドから離れた戸口に椅子を置いてアレクサンドラの姿を見守ることにした。

☆☆☆

< 206 / 252 >

この作品をシェア

pagetop