初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
 漆黒の闇の中に光が差し込むような気がして、アントニウスはまっすぐに光に導かれるまま歩き続けた。
 光の先では夜会でも開かれているのか、軽やかなワルツの音楽と人々の喧騒が音楽と共にわずかだが聞こえてきた。

(・・・・・・・・誰かいるのであれば、ここがどこなのかを教えてもらえる。よもや、ポレモス領ではないだろうが、念のため、注意して進もう・・・・・・・・)

 アントニウスは考えながら、まっすぐに光の方へと進んでいった。
 明かりに近付くにつれ、見えない何かがぶつかるようになった。

(・・・・・・・・ここは森なのか? 真っ暗で何も見えないが、どうやら先程から足元では草を踏むような音が聞こえるし、顔に当たるのは木々の枝のような気がする・・・・・・・・)

 アントニウスは目を保護するように前方の空間を手で探りながら少し歩を緩めた。
 ひときわ大きな枝のようなものにしたたか頭を叩かれ、こぶができたのではないかとアントニウスが頭をなでて顔を上げると、そこは見覚えのある屋敷の庭だった。

(・・・・・・・・ここは、イルデランザではない。この屋敷の建築は、エイゼンシュタイン・・・・・・。いつ私はエイゼンシュタインに戻ってきたのだ?・・・・・・・・)

 次の瞬間、屋敷の広間で優雅に踊るレディの姿にアントニウスの瞳はくぎ付けになった。

(・・・・・・・・アレクサンドラ! 誰と踊っているのだ?・・・・・・・・)

 アレクサンドラが誰と踊ろうと、アントニウスの許可が要るわけでもないのだが、見たこともない豪華なドレスは、アントニウスが以前、いつかアレクサンドラにプレゼントしたいと思いながら、独身のレディが切るには大人びていて、これは夫人向けだと諦めたものによく似ていた。

(・・・・・・・・まさか、誰かに嫁がれたのか?・・・・・・・・)

 考えただけで足が震えた。
 アントニウスだって、いつまでもアレクサンドラが政治的圧力に屈服せず、独身を貫き通せるとは思っていなかった。それでも、せめて、この戦が終わり、もう一度エイゼンシュタインに赴き、改めて求婚するまではと、そう願っていた。
 足取りも軽く、ドレスの裾を翻し、軽やかに踊るアレクサンドラの事を周りがうっとりと見つめているのは見て取れた。それなのに、肝心のアレクサンドラの相手が見えなかった。
 アントニウスの足は一歩、一歩、広間へ続く石畳の道を進んでいった。
 音楽が止み、パートナーに手を取られたアレクサンドラがテラスの方へと進んできたが、それでも扉に邪魔され相手の姿を見ることができなかった。

(・・・・・・・・アレクサンドラ、もう一度会いたい。例え、誰かに嫁いでいたとしても、もう一度言葉を交わしたい・・・・・・・・)

 アントニウスの目の前で扉が開き、アレクサンドラが庭に続くテラスに姿を現した。
「✖✖✖✖✖✖✖!」
 『アレクサンドラ』と声をかけたはずなのに、アントニウスの口から発せられた音は言葉にはなっていなかった。
 風に邪魔されそうな、木々の葉がこすれあう音のようで、アントニウスの言葉はアレクサンドラには届かなかった。
 アレクサンドラの傍へとアントニウスが進もうとしたところに、扉が開いてアレクサンドラと踊っていた相手と思われる男が出てきた。
「こんなところで何をしている」
「少し一人になりたかっただけです。踊りすぎて、涼しい風にあたりたくなっただけですから、すぐに戻ります」
 アレクサンドラの感情を押し殺したような声がアントニウスの胸に苦しく響いた。
「お前のような貧乏伯爵家の娘を妻に迎えてやったのは、お前の姉が殿下に嫁いだからだ。この俺がお前に惚れているなどと、妄想するのもいい加減にしろ!」
「私は、そんなことは考えておりません。陛下から、ローゼンクロイツ伯爵に嫁ぐようにと、王命を戴いたので、そのお心に従ったまでです。もとより、あなたと私の間に特別な感情があるなどとは思っておりません」
「そうだ。陛下のご命令だから、お前を妻にしてやったんだ。わかっているだろうな、侯爵家に嫁いだ妻の役目が何か?」
「・・・・・・それは、一日も早く、後継ぎを生むことです・・・・・・」
「そうだ。お前の仕事は後継ぎを生むことだ。うまいものを食べ、いい物を着て、俺に抱かれる、そして、俺の子供を産む。お前はそれだけのために生きているのだ、良く覚えておけ。お前の命には、後継ぎを産む価値しかないことをな! なんなら、ここでその仕事をするか?」
 男の腕がアレクサンドラの腕をつかみ、無理やり抱き寄せた。
「おやめください。まだ、広間には、殿下とお姉さまが・・・・・・」
「そうだなぁ。夜会の庭先で義理の妹が娼婦の様に足を開いているところを人に見られたら、殿下も気まずいだろうな・・・・・・。どこの誰と待ち合わせしていた! 夫を裏切ることがどれだけ罪深いか、その体に教え込んでやる!」
「いや! 痛い! おやめください!」
「諦めろ。お前に結婚を申し込んでいた、あの殿下の従兄もグランフェルド大公女を妻に迎えたそうじゃないか。所詮、お前のことなど遊びだったものを真に受けて、馬鹿な女だ!」
 バシッと男の平手がアレクサンドラの頬を打った。
「お前は、死ぬまで俺の奴隷だ、自由などないと、そう思え・・・・・・」

 光に顔を見ることはできないが、この傍若無人、人を人とも思わない男をアントニウスは知っていた。
 激しい殺意と、アレクサンドラを助けたいという想いがアントニウスの体の中ではじけて光を放った。
 あと数歩でアレクサンドラの元に駆け付け、非道な夫から守ることができるのに。体は石のように固く、足は一歩も前に進まなかった。

「その涙で濡れた顔を何とかしろ。夫婦円満に見えないと、陛下にご迷惑がかかるからな」
 男は言うと、アレクサンドラ一人を置いて屋敷の中に戻って行った。
 アレクサンドラは袖口からシルクのハンカチを取り出すと、何度も何度も涙をぬぐっていた。

(・・・・・・・・アレクサンドラが泣いている! あと一歩、いや、あと数歩でいい、アレクサンドラの傍に・・・・・・。そうしたら、アレクサンドラの方が私に気付いてくれるかもしれない。あの男が言ったことは嘘だ。私はグランフェルド大公女とは破談になって、私に妻はいない・・・・・・・・)

 アントニウスは必死に声を出そうとしたが、風が抜けるような音がするだけで声を出すことはできなかった。

『アントニウス様、私はここにおります。ずっと、アントニウス様のお傍に・・・・・・』

 突然、アントニウスの耳元でアレクサンドラの声が聞こえた。
 次の瞬間、アントニウスは再び漆黒の闇の中に取り残されていた。

(・・・・・・・・どういうことだ? さっきの屋敷は? アレクサンドラがあの、フランツに嫁いだのは夢なのか? 今聞こえた声は? まるで、私の傍にアレクサンドラがいるように感じたのは、あれはどういう事なんだ?・・・・・・・・)

 アントニウスは闇の中で再び光を求めて辺りに目を凝らしたが、光は見えなかった。

☆☆☆

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