初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
侍医が脈をとったままにしてあるアントニウスの手をアレクサンドラはしっかりと握った。
屋敷に運ばれて来てすぐの頃のアントニウスの顔色は、近くで死神が時を待っているかのように青白かったが、侍医達の指示に従い、厨房が栄養のあるスープを作り、毎日目覚めぬアントニウスに少しずつ飲ませているおかげか、顔色も大分よくなり、戦場では水と栄養剤の注射しか受けていなかったと聞いていたので、アレクサンドラも目覚めぬままのアントニウスがゴクリと音を立ててスープを飲む姿に救いを見出していた。
(・・・・・・・・顔色も良くなってきている。だから絶対にアントニウス様は目覚めて下さる・・・・・・・・)
アレクサンドラは祈る様にしてアントニウスの手をぎゅっと握った。
次の瞬間、アントニウスの手が握り返してくれたような気がして、アレクサンドラは声をあげた。
「アントニウス様?」
アレクサンドラの呼びかけに答えるように、アントニウスの手が再びアレクサンドラの手を握り返した。
「間違いではありません。アントニウス様が、私の手を握り返してくださいました」
アレクサンドラの言葉に、ソフィアが慌てて立ち上がると、慌てたのかイルデランザの言葉で何を言い残し、部屋から飛び出していった。
「アントニウス様、どうか、どうか目を開けてくださいませ」
アレクサンドラ呼びかけ続けた。
「アントニウス様」
アレクサンドラは呼びかけると、人目も憚らずにアントニウスの手の甲に頬を寄せた。すると、アントニウスの口元と、目元が動いたような気がし、アレクサンドラはじっとアントニウスの事を見つめた。
ずっと閉じられていたアントニウスの瞼がかすかに震え、そしてゆっくりと瞼を開けようとしているのが目にも明らかになった。
「アントニウス様、私です。アレクサンドラです。こうして、お傍におります」
アレクサンドラは力づけるように言うと、アントニウスの手を握る手に力を込めた。
アレクサンドラが見守る中、わずかに震えていた瞼がわずかずつだが動き、そして眩しそうに眼もとにしわが寄るのを見たアレクサンドラは顔を上げてライラの方を向いた。
「ライラ、窓にカーテンを! それから、部屋を暗くして、眩し過ぎてアントニウス様は目を開けられないのよ」
アレクサンドラの指示に従い、ライラは窓に走り寄ると、カーテンをひいて窓の外から入る強い光を遮断した。
「何事でございます?」(イルデランザ語)
ソフィアに連れられ、走りこんできた侍医が目にしたものは、わずかに開かれた瞳で必死にアレクサンドラの事を見つめるアントニウスの姿だった。
「アントニウス殿下」(イルデランザ語)
大公位継承権第三位であるアントニウスに敬意を払い、侍医はアントニウスの事を『殿下』と呼んだ。
薄暗い部屋の中で、アントニウスはできる限りの力を込めてアレクサンドラの手を握り、淡い光を宿した瞳でアレクサンドラを見つめていた。
それでも、アントニウスの瞳には燃え立つ愛が宿り、アントニウスはかすれ、隙間風のような音を立てる声で必死にアレクサンドラの名を呼んでいた。
「ア・・・・レク・・・・サン・・・・ドラ・・・・・・」
そのかすれる多声を必死に聞き取ろうと、アレクサンドラが顔を寄せると、アントニウスは安心したような笑みを浮かべた。
「お嬢様、席をお外しください」(イルデランザ語)
侍医の言葉は理解できたので、アレクサンドラは追いすがる様に手を放したがらないアントニウスの手を掛布団の上に下ろし、一歩後方に下がって侍医に場所を開けようとした。
すると、アレクサンドラを捕まえようとするように、アントニウスがその手を必死に伸ばし、その口は言葉にならない声でアレクサンドラを呼んで叫んだ。
「殿下、どうか、落ち着かれませ・・・・・・」(イルデランザ語)
侍医が声をかけると、弱々しかったアントニウスの瞳に危険な色が宿った。そして、その手は何かを探すように腰のあたりに延ばされた。
「アントニウス様」
アレクサンドラは名前を呼ぶと、何かを探しているような手を掴んだ。
「大丈夫です。診察が終わったら、私はすぐに戻ってまいります」
アレクサンドラは言ったが、アントニウスはアレクサンドラの手を掴み、頭を大きく左右に振った。
「奥様を呼んでまいります」(イルデランザ語)
ソフィアが声をかけ部屋から消えた後も、アントニウスはアレクサンドラの手を放そうとしなかった。
「アントニウス様、そのように強く握られては、痛うございます」
アレクサンドラが言うと、アントニウスは慌てて力を緩めた。しかし、必死の形相でアレクサンドラの手を掴んでいたアントニウスの力は少し緩んだだけで、アレクサンドラの手を放そうとはしなかった。
「・・・・・・アントニウス!」
マリー・ルイーズの声が響き、マリー・ルイーズはベッドサイドに歩み寄ったが、アントニウスは一瞥しただけでマリー・ルイーズにも注意を払った様子はなかった。
マリー・ルイーズの後ろから部屋に入ってきたミケーレは叫びそうになるのを必死に堪え、扉の傍に控えた。
「アントニウス。アレクサンドラさんが驚いているわ。その手をお放しなさい。アレクサンドラさんは、わざわざイルデランザまで、あなたのためにいらしてくださったのですよ」
マリー・ルイーズは言うと、アレクサンドラの手を掴むアントニウスの手の上に自分の手を重ねた。
「アントニウス、私の可愛い息子。悪夢はもう終わったのです」(イルデランザ語)
マリー・ルイーズが諭すように言うと、アントニウスはアレクサンドラの手を握る力を緩め、アレクサンドラの手が離れていくのを追うのをやめた。
「は、・・・・・・母・・・・・・う・・・・え・・・・・・」(イルデランザ語)
「そうです、アントニウス。あなたの悪夢はもう終わったのです。お帰りなさい、アントニウス」(イルデランザ語)
マリー・ルイーズが言うと、アントニウスは涙を零した。
「アレクサンドラさん、ごめんなさいね。痛かったでしょう。お部屋で休んでいらして、侍医の診察が終わったら、すぐに呼びに行かせますから」
マリー・ルイーズの言葉に、ソフィアがすぐに動き、ライラと二人でアレクサンドラを部屋の外へと連れ出した。
「では、アントニウスの診察をお願いいたします」
マリー・ルイーズは言うと、侍医に後を任せ自分は廊下に出た。
「温かいスープ、それから、お茶を用意して。旦那様に、アントニウスが目覚めたことをご連絡して。それから、アントニウスが上体を起こせるようにクッションの用意を・・・・・・。クレメンティ、ここの指揮はミケーレに任せます。そのように伝えなさい」
廊下で待っていたクレメンティに言いつけると、マリー・ルイーズは呼吸を整えながら、必死に涙をこらえて階下のサロンへと降りていった。
アントニウスの診察にはしばらく時間がかかり、アレクサンドラが再びアントニウスの部屋に呼び戻されたときには、アントニウスは綺麗に身支度を整えられ、背中にクッションを挟んで寄りかかっていた。
「アントニウス様・・・・・・」
アレクサンドラは涙を零しながらアントニウスに歩み寄った。
「ア・・・・レク・・・・サンドラ・・・・・・」
こけた頬が痛々しかったが、かすれた声で必死にアレクサンドラの名前を呼んでくれるのが嬉しくて、アレクサンドラはアントニウスの胸に飛び込んでいきたいと思ったが、必死にそれを堪えて速足で歩み寄った。
「アントニウス様、おかえりなさいませ・・・・・・」
アレクサンドラが言うと、アントニウスはゆっくりとアレクサンドラの方に手を伸ばした。
アレクサンドラはアントニウスの手を取った。
そこにマリー・ルイーズの指示で温かいスープとお茶が運び込まれてきた。
「失礼いたします」
ミケーレは言うと、ベッドの上にテーブルをセットし、スープを置いたが、弱ったアントニウスの腕ではスープを一人で飲むのは困難だった。
「私が・・・・・・」
アレクサンドラが名乗りを上げたが、鋭い眼差しでアントニウスがミケーレに指示を与え、ミケーレはスプーンを受け取るとスープをアントニウスの口元に運んだ。
一口、また一口とアントニウスがスープを飲む姿をアレクサンドラは涙を流しながら見守った。
スープを飲み、口直しの温かいお茶を飲んだアントニウスは少し声を取り戻した。
「アレクサンドラ、・・・・・・なぜここに?」
アントニウスの問いは当然で、婚約も交わしていないアレクサンドラが戦時下のイルデランザに赴き、ザッカローネ公爵家に滞在するだけでなく、一人でアントニウスの傍に居たことは、婚約どころか結婚したも同じだった。
「アントニウス様がお怪我をされたと、ペレス大佐からお手紙を戴きました」
アレクサンドラが答えると、一瞬のうちにアントニウスの顔が曇った。
「これも、夢なのか? こんなに近くあなたを感じられるのに、いつになったらこの夢から逃げられる? 私は、あなたの元に、戻りたいのに!」
吐き捨てるように言うと、アントニウスは頭を抱えて叫び始めた。
「アントニウス様、これは夢ではありません」
語り掛けるアレクサンドラの言葉を振り切る様にアントニウスが腕を振るい、ベッドの上のテーブルがかしいで床にスプーンや皿が投げ出された。
「アントニウス様・・・・・・」
途方に暮れるミケーレに、アレクサンドラは決意を固めた表情で言った。
「全員、この部屋から出ていってください。ミケーレあなたも、それから、ソフィア、ライラもよ」
突然のアレクサンドラの命に全員が途方に暮れた表情をしたが、例え客とはいえ、アレクサンドラは伯爵家の令嬢。公爵家の使用人とはいえ、伯爵家の令嬢の言葉に反駁することはできなかった。
「すべての責任は私が追います。どんな悪い噂も、罵りも。ですから、部屋から出ていってください」
毅然としたアレクサンドラの言葉に、しぶしぶ使用人達は全員部屋を後にした。
扉が閉まるのを確認してから、アレクサンドラはアントニウスのベッドサイドで中腰になり、アントニウスのと頭の高さを合わせた。
「アントニウス様、これは夢ではありません」
アレクサンドラは言いながら、アントニウスの腕を掴んだ。
振り払おうとするアントニウスと力の競い合いになり、負けたアレクサンドラはアントニウスの前に横倒しになった。その無防備な姿に、アントニウスは夢の中で感じていた激情が沸き上がるのを感じた。
「夢でないのなら、なぜあなたがここにいる? あなたの夫は誰だ?」
アントニウスの言葉に驚きながら、アレクサンドラはアントニウスの事を見上げた。
「私は誰にも嫁ぎません。アントニウス様がエイゼンシュタインにいらしたときに、お慰めするのが私の務めです。この身も心も、あの晩、図書室であなたに捧げました」
静かなアレクサンドラの声に、アントニウスは胸を鋭い刃物で刺されたような衝撃を受けた。
「私の秘密は、全てアントニウス様の心の中にあります。この身も、この心も、全てアントニウス様のものです」
アントニウスはアレクサンドラの事をじっと見つめた。
「アレクサンドラ? ・・・・・・本当に、これは夢ではなく、あなたは本物のアレクサンドラなのか?」
「はい」
アレクサンドラは静かに答えた。
「なぜ、ヤニスの事をあなたが知っている? あなたの名前を明かしたことは、一度もないのに」
アレクサンドラは笑顔で答えた。
「はい。宛先の名前はございませんでした。戦地から、アントニウス様が書かれたお手紙と一緒に、ミケーレが届けてくれたのです。ペレス大佐は、ミケーレ宛てに手紙を書き、アントニウス様の最愛の女性に手紙を渡してほしいと託されたと。・・・・・・私が戴いてしまってもよかったのでしょうか?」
アレクサンドラの控えめな言葉に、アントニウスはこれが夢でないと確信した。
「これは夢ではない・・・・・・。あなたは、アレクシス・・・・・・」
二人きりという油断からか、アントニウスは一生口にするつもりのなかったアレクサンドラの秘密を口にした。
「はい。もう、アレクシスにはなれませんが・・・・・・」
アレクサンドラが答えると、アントニウスは渾身の力を振り絞ってアレクサンドラを抱きよせた。
「アレクサンドラ、あなたに、もう一度会いたかった・・・・・・」
アントニウスの胸に顔をうずめ、アレクサンドラは涙を零した。
「アントニウス様・・・・・・」
腕に抱きしめ、口づけたいと望んでいたアレクサンドラを前に、アントニウスは公爵家の嫡男としてのマナーも、紳士としてのマナーも忘れ、アレクサンドラに口づけた。
長い、生死をまたぐ試練の後の口づけに、アレクサンドラは抵抗しなくてはいけないことを忘れてその身を預けた。
場所がアントニウスの寝室であること、他に誰もいない場所である事を思えば、伯爵令嬢としてこのような事は避けなくてはいけなかったのに、アレクサンドラはただアントニウスを受け入れた。
☆☆☆