初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
 長い間眠りについていたこともあり、意識が戻ってもアントニウスはすぐには歩くことができなかった。そのため、すぐにマリー・ルイーズが手配し、車いすが用意された。
 また、アントニウスが目覚めたという知らせが軍に届くと、軍はすぐにアントニウス付きの従卒であるヴァシリキを屋敷に派遣し、アントニウスの世話をするように命じた。
 部屋の中だけでなく、ヴァシリキと下僕に担がれて車いすごと階下に降りることができるようになったアントニウス、部屋での一人きりの食事を止め、朝晩の食事はマリー・ルイーズとアレクサンドラと摂るようになった。それとともに、アントニウスの食事はただのスープから栄養価の高い食品に変わり、一日も早く体力の回復が望めるようにとの特別メニューが軍から届けられ、それに従ってアントニウス用の特別メニューが作られた。
 既に戦地に赴いている公爵からは、一度アントニウスの所に手紙が届いたが、それ以外、音沙汰はなかった。しかし、定期的に軍部からは戦況にかかわる資料と思われるものが送り届けられ、その資料にアントニウスが目を通す間は、ミケーレも部屋に入れてもらえない厳重さだった。


 ヴァシリキの押す車いすに乗りながら、アレクサンドラと庭を散歩していたアントニウスは、時に甘い会話をしたいと思ったが、まじめな顔で表情一つ変えずに車いすを押すヴァシリキの存在に、アレクサンドラは緊張してしまうようで、なかなか話は弾まなかった。
「そういえば、新しいバラの品種に、ロベルト殿下が『プリンセス・ジャスティーヌ』という名前を付けたというのを教えてくださいましたね?」
 アレクサンドラの問いに、アントニウスは遥か昔を懐かしむような表情を浮かべた。
「そういえば、ロベルトがそのような話をしていましたね。本当は、もっと赤いバラが良かったのだが、深紅のバラはジャスティーヌのイメージではないから、やはりピンクで諦めるとか、ずいぶん悩んでいたようだったが、とうとう花が咲いたのか・・・・・・」
「はい、そのようです」
 アレクサンドラは答えると、見事なザッカローネ公爵家のバラ園の花に顔を寄せた。
「そのバラは幸せものだ。アレクサンドラ、あなたにそんなに近づくことができて・・・・・・」
 アントニウスが甘い言葉を続けようとすると、ヴァシリキが咳払いした。
「ヴァシリキ、車いすを押すのはミケーレにもできる。お前は少し休憩をとったらどうだ?」
 話の展開が甘くなりそうになるたびに邪魔をするヴァシリキに、アントニウスは腹立たしげに言った。
「メルクーリ大尉、これほどまでに回復されたのですから、もう間もなく、軍部に出頭し、参謀室での任務に戻られることもできましょう」(イルデランザ語)
 ダメ押しの仕事の話を持ち出され、アントニウスは完全に気持ちがしおれてしまった。
 公爵家の使用人ではないので、ヴァシリキはアレクサンドラのためにエイゼンシュタインの言葉を話すことはない。それでも、『軍』と『任務』という言葉はアレクサンドラの耳に捉えられた。
「軍に戻られるのですか?」
 驚いたようにアレクサンドラが尋ねると、アントニウスは困った表情を浮かべた。
「ヴァシリキ、席をはずせ」(イルデランザ語)
 完全な命令調で言うと、ヴァシリキはピシリと敬礼をしてその場を去って行った。
 アレクサンドラからしたら、命の危険があるほどの怪我をし、やっと意識が戻ったばかりだというのに、また軍の任務に戻るなど、考えてもいなかった。
「いま、軍部と侍医が、それに大公殿下が検討されていらっしゃいます。もともと、私は参謀室付きですので、本来は最前線に赴く身ではなかったのですが、この度の戦で二度とポレモスが戦いを挑むことがないように、徹底的にポレモスを叩くという作戦の一環で、私も最前線に赴いておりました。ですが、車いすの身では、とても最前線は無理です。それに、まだ、毎日歩く練習もありますから」
 アントニウスはそこまで言うと、ゆっくりと車いすから立ち上がった。
「アントニウス様、危険です。ミケーレもヴァシリキさんもいなのに」
 やっとのことで立ち上がり、片手を車いすについて体を支えるアントニウスは、ゆっくりとアレクサンドラに向き直った。
「アレクサンドラ。エイゼンシュタインにお帰りなさい」
 アントニウスの言葉は、アレクサンドラには信じられないものだった。
「何を・・・・・・」
「イルデランザは戦時下、私たちの関係は、白い結婚も同じ。あなたの将来に悪い影を落とします。もし、私があのまま目覚めなかったら、どうするつもりだったのですか? あなたは、未婚で未亡人になっていたのですよ」
「それは、父にも言われました。でも、それでも、私はアントニウス様のお傍に居ることを望んだのです。・・・・・・もしかして、ご迷惑でしたか?」
 喜んでとまでは言わないが、アレクサンドラを同道して帰国することを承諾してくれたマリー・ルイーズからは、アントニウスに別の恋人がいる様子は感じられなかったし、目覚めてすぐにアレクサンドラを求め、口づけてきたアントニウスから、他に心に決めた女性がいるとは思えなかった。
「私は、戦況によってはグランフェルド公国の息女と政略結婚を受け入れなくてはいけない立場です」
 アントニウスの言葉はアレクサンドラを絶望の淵に追いやった。

(・・・・・・・・ああ、お父様が公爵になったとしても、グランフェルド公国の大公のご息女にはかなわない。ジャスティーヌが王太子妃になることが決まり、やっと、アントニウス様の隣に立っても許される身分になれたと思ったのに。アントニウス様がグランフェルド公国のご息女と結婚するかもしれない・・・・・・。そんなこと、考えたこともなかった・・・・・・。やっぱり、私はアントニウス様の隣には相応しくない。アントニウス様がエイゼンシュタインを訪れた時にお慰めする事しか許されないんだわ・・・・・・。それなのに、私ったら愚かにも、アントニウス様の隣に並んで立つことができるなんて、何を夢みたいなことを考えていたの・・・・・・・・)

 アレクサンドラは涙が零れそうになるのを必死に堪えた。
「お父上が公爵に叙爵されることが決まり、その式典も間近だと聞きました。心より、お喜び申し上げますと、伯爵、いえ、公爵には申し上げたい」
「ありがとうございます。戻りましたら、アントニウス様のお言葉を申し伝えます」
 アレクサンドラは一刻も早くこの場を去りたかったが、アントニウスは一人で立っているのが精一杯の状態で、近くにはミケーレもヴァシリキもいないので、去ることもできずアントニウスの言葉に耳を傾けるしかなかった。
「アレクサンドラ、私は、眠っている間に、何度もあなたの声を聴きました。あなたが傍に居てくれなかったら、きっと私は目覚めることができなかったでしょう。私を目覚めさせてくれたのは、侍医の薬でも、温かいスープでもない。あなたの愛だ・・・・・・」
 アントニウスは言うと、ゆっくりとアレクサンドラの方に向き直った。
「だから、お帰りなさい、エイゼンシュタインに。こんな風に、なし崩しにあなたを私のものにすることを私は望んでいない」
 アントニウスの言葉は静かだった。
「グランフェルド公国の大公のご息女が相手では、例え公爵令嬢になっても私にも太刀打ちはできません。それに、大公位継承権第三位、侍医に『殿下』と呼ばれるアントニウス様には、やはりグランフェルド公国の大公のご息女がお似合いです。ですから、私はアントニウス様がお命じになられるなら、エイゼンシュタインに帰ります」
 アレクサンドラは声が震えないように、必死に涙をこらえて言うとアントニウスから顔を逸らした。
「やはり、父の言った通りでした。隣国の公爵家に、突然押しかけるなんて、非常識で、アントニウス様にご迷惑がかかるばかりだと」
 話が思っているのと違う方向に進み始めたことにアントニウスは慌てたが、アレクサンドラはアントニウスに言葉を挟ませなかった。
「思い立ったら吉日ですわ。すぐに荷物をまとめます。馬車を用意していただいたら、今晩にもお暇致します」
 本当はアレクサンドラをエイゼンシュタインに帰したくはなかった。それでも、父からアントニウスに届いた手紙には、一刻も早く、アレクサンドラをエイゼンシュタインに帰国させるようにと書かれていた。そして、アレクサンドラとの結婚に乗り気な母、マリー・ルイーズは一切知らない話だと、アントニウスにも想像がついていた。父は自分ではマリー・ルイーズを御すことができないから、当事者同士の間で物事を決めたようにして欲しいと言ってきたのだ。
 アレクサンドラを帰すために持ち出したグランフェルド公国の大公息女との婚約の話はとうの昔に流れていたが、ポレモスが捨て鉢になってグランフェルド公国と開戦したら再燃する可能性がゼロではなかった。しかし、連日の報告を見る限り、戦況は大幅な勝利でイルデランザ軍が着実にポレモスを追い込んでいる今、ポレモスがグランフェルド公国にまで戦争を仕掛けるとは思えなかった。
「あの、私、荷造りがございますから、ミケーレかヴァシリキさんを呼んでいただけますか?」
 アレクサンドラは言うとアントニウスに背を向けて屋敷の方を向いた。
 瞬間、アントニウスの中で感情がはじけた。このままアレクサンドラを帰したら、もしかしたら、アントニウスに拒絶されたと思い込んで、アレクサンドラは他の誰かの所に、その苦しみを和らげてくれる誰かのもとに嫁いでしまうかもしれないと、思うなりアントニウスは背中からアレクサンドラを抱きしめた。
「アントニウス様?」
 アレクサンドラの驚きの声を聞きながら、アントニウスは自分の頬をアレクサンドラの頬に寄せた。この温もりを手放したくないと、アントニウスの心が叫んでいた。しかし、父の命令でアレクサンドラを一刻も早くエイゼンシュタインに帰さなくてはならない。二つの感情がアントニウスの中で激しくぶつかり合っていた。
「アレクサンドラ、あなたの温もりを忘れたくない・・・・・・」
 刹那的な雰囲気が、アレクサンドラにあの日の別れを思い出せた。
「アントニウス様、あの日、お別れを言いにいらした日にお忘れになられた上着、持ってまいりましたから、ミケーレにお返し致しました」
「あれは・・・・・・」
 本当は、自分の代わりにアレクサンドラの傍に置いておいてもらいたいと、アントニウスの意思で置いてきた上着だったのに、それが既に自分のワードローブに戻っていることに、アントニウスは真実を告げられない自分が許せなかった。
「もう私の事は、ご心配にならないでください。どうか、アントニウス様はお幸せになってくださいませ」
 アレクサンドラは言うと、これ以上アントニウスの傍に居ることに耐えらず、自分から助けを呼ぶ声をあげた。
「ミケーレ、お願いです。ヴァシリキさんが席をはずしているので、アントニウス様を車いすに座れるようにして差し上げてください」
 アレクサンドラが声をあげると、すぐにミケーレとヴァシリキが姿を現した。
 どう見ても、背中からアレクサンドラをアントニウスが抱きしめているように見える状況に、二人は主の許しなく近寄って良いものかを逡巡しているようだった。
「アントニウス様が、立って見せてくださったのですが、立っていられず、私ではお支えすることができなくて・・・・・・」
 アレクサンドラが言葉を足すと、すぐにミケーレがイルデランザ語で何かをヴァシリキに話しかけ、すぐにヴァシリキがアントニウスの体を支えて車いすに座らせた。
「では、私、お先に失礼いたします」
 アレクサンドラは言うと、足早に去って行った。
「アントニウス様、よろしいのですか?」
 ミケーレが心配げにアントニウスの事を見つめた。
「仕方ないんだ・・・・・・」
 アントニウスは言うと、ヴァシリキに命じて車いすを屋敷の方へと向かわせた。

☆☆☆

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