初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
ポレモス共和国から大公宛てに届いた親書の内容が知らされるのを待って、本部に残っていた参謀部のメンバー全員が揃って知らせを待っていた。
しばらくして、届いた通知に参謀部の全員が狂喜乱舞した。
「全面降伏か・・・・・・」
アントニウスは噛みしめるように言った。
「大尉、おめでとうございます。負傷されて尚、次々とポレモスを打ち倒す計画を立てられた大尉の功績は素晴らしく、大尉の従卒としてお仕えすることができたことを光栄に思っております」
ヴァシリキの言葉に、アントニウスは少し微妙な表情で礼を言った。
「俺の従卒でなければ、余計な苦労をしなくても済んだところを随分、苦労をさせてしまったと思っている」
「とんでもございません。大尉の計画がなければ、ポレモスが完全降伏することはなかったと思っております」
ヴァシリキは胸を張って言ったが、アントニウスは失ったものが多すぎて素直には喜べなかった。
「確かに、終戦までに私が車椅子を使わずに過ごせるようになって良かったと言うべきだろうな。我が家の下僕だけでは、上り下りが不安だからな」
寂しげな笑みを浮かべて言うアントニウスに、ロベルトは膝を折ってアントニウスを見上げた。
「大尉、自分は大尉が快癒されるまで、大尉のトレーニングをお手伝いするつもりでございます。ですから、そのような悲し気な表情をなさらないでください」
ヴァシリキの言葉はありがたかったが、参謀室に籍を置くだけのアントニウスと違い、ヴァシリキは陸軍より参謀室付けとして派遣されているだけで、戦争が終われば新たな任務に就かねばならない。特に、ポレモスの全面降伏と言うこの喜ばしい状態であることから、イルデランザの属国としてポレモスという国を維持するのか、それとも、ポレモスをイルデランザ領として完全に征服してしまうのか、その対応によって、今後の陸軍の任務が多岐にわたることは明らかだった。
「ヴァシリキ、本日、ただ今を持って、私、メルクーリ大尉付きの任を解く。直ちに、部隊に戻り、今後の任務に誠心誠意尽くすように。伍長、君の献身的な働きに感謝する」
アントニウスは参謀室にいる全員に聞こえる声で宣言した。
「大尉・・・・・・」
ヴァシリキは茫然とした表情を浮かべたが、正式に解任された今、一軍人として命令に反することはできなかった。
「大尉にお仕えできたこと、一生忘れません。では、これで失礼いたします」
ヴァシリキは敬礼し、深々と頭を下げてから参謀室を後にした。
ヴァリシキを見送ったアントニウスは、参謀室を後にすると杖を突きながら上官であるヨルギア・コリントス中将の執務室を訪ね、終戦の祝いと、ポレモスの降伏の喜びを交わした。
そして、健康上の理由から再び参謀室を離れる許可を貰うと、そのまま車付けまで向かった。
参謀本部で務めを果たしている間は、ヴァリシキがいるのでミケーレは同道していない、仕事に復帰し、杖を使って歩くことができるようになってから初めて、アントニウスは宮殿の中を一人で進んだ。
通りすがりの制服姿の下士官や宮殿の使用人達がアントニウスに敬意を払って礼をとったが、アントニウスは逃げるようにして通り過ぎ、車付けで馬車を呼ばせると、何とか自力で馬車に乗り込み屋敷へ帰った。
門番からの知らせで玄関の外まで迎えに出てきていたミケーレの手を借り、アントニウスが屋敷に入ると、マリー・ルイーズが待ち構えたように正面に立ちふさがった。
「アントニウス、話があります」
マリー・ルイーズがアントニウスと話したがることと言えば、アレクサンドラの事以外には考えられない。
「母上、やっとポレモスが降伏したとはいえ、私の足が治ったわけではありません。私は、足が治るまで、誰との結婚も考えるつもりはありません」
アントニウスの言葉にマリー・ルイーズが顔色を曇らせた。
「誰ともという事は、私が知るほかにも花嫁候補がいるという事ですか?」
マリー・ルイーズにしてみれば、アントニウスの花嫁候補はアレクサンドラ以外にあり得ず、グランフェルド大公女との婚約の話にも、アントニウスとは性格が合わないだろうと、消極的だった。それだけに、アレクサンドラを冷たく帰国させた挙句、他に候補の女性がいるとなれば、十年に一度と言われる激しい夫婦喧嘩が予想され、最終的にはマリー・ルイーズが『国に帰らせて戴きます』と言って帰国し、慌てた父がアントニウスにマリー・ルイーズの様子を見に行かせるというのがお決まりだが、アレクサンドラと言う重要人物がエイゼンシュタインにいる今、父がそうそう気軽にアントニウスに国境を越えさせるとは思えなかった。
「母上、私の花嫁候補がこの世に何人いるか知りませんが、戦地から戻った父上と大喧嘩をしても、いつものように私が母上の様子を見に行かされることはないと思われたほうがよろしいですよ」
「アントニウス……。まさか、反対したのはお父様で、あなたは意に沿わぬ行動をとらされているのでは?」
マリー・ルイーズは躊躇いがちに問いかけた。
「母上、私は、腐ってもアントニウス・メルクーリ。ザッカローネ公爵家の嫡男。父の許す範囲でしか自由に暮らすことのできない、そういう星の下に生まれた男だというのが私の答えです。では、足が痛いので失礼します」
アントニウスは痛い足を折り、母に敬意を表してお辞儀をしてから、ミケーレの手を借りて階段を上って自室に向かった。
自室に入ると、やっと戦争が終わったという実感がわいた。
「アントニウス様、本日は良い知らせがございましたので、お風呂の用意をさせてございます。お入りになられますか?」
ポレモス降伏の知らせは、公爵家であれば当然すぐに届いていたのだろう。ミケーレは更に『お夕食は、いつもより料理の量と種類を増やさせておきましたので、ダイニングでゆっくりとお召し上がりになれます』と続けた。
「ミケーレ、今は、母上とは顔を合わせたくない。・・・・・・着替えさせてくれ」
ミケーレは『かしこまりました』と答えると、すぐにアントニウスの上着を脱がせ、アントニウスがシャツのボタンを外している間に軍服の上着から勲章を取り外し、丁寧にそれをチェストの上に並べた。
アントニウスがシャツを脱ぐのに合わせ、シルクのガウンを羽織らせると、アントニウスの脱いだズボンから軍服用のベルトを外し、ドレッシング・カウチにアントニウスが腰を下ろすのを待って靴と靴下を脱がせて部屋履きに履き替えさせた。
「バスルームには、私も参りましょうか?」
いつも、急いで風呂に入るときは、ミケーレに傍に控えてもらい、入浴を手伝ってもらっていたアントニウスだったが、急ぐ必要のない今日は、一人でゆっくりと湯につかりたかった。
「いや、一人でいい。何かあったら呼ぶから心配しなくていい」
アントニウスは言うと、立ち上がりバスルームの扉をくぐった。
衝立の奥にある猫足のバスタブに整えられた湯を見つめ、アントニウスはガウンを脱ぎ、下穿きを脱ぐとバスタブのへりに腰かけ、杖から手を放すと湯に浸かった。
衣服の乱れは心の乱れ、強いては軍紀をも乱すと、毎日、下士官たちの見本となるようにきっちりと制服を着、重い勲章をぶら下げ、不自由な足でよくも参謀室の任務を務めあげたものだと、アントニウスは自分で自分を褒めたかった。
何度、家も名前も捨て、国も捨ててアレクサンドラの元へ向かいたいと思ったことか。かつての裕福でないアーチボルト伯爵の令嬢であったなら、面会も叶ったかもしれないが、公爵家の令嬢ともなれば話は違う。専属のメイドは一人ではないだろうし、国もファーレンハイト伯爵の地位も失ったアントニウスに面会の叶う相手ではない。そう思うと、あの日父の命令に従った自分が憎く、アントニウスは自分の体を痛めるような働き方を続けてきた。しかし、長かった戦争は終わり、明日からは朝寝坊をしても慌てて着替えさせられることもなく、沈黙の圧力に負けて朝食のトレイを脇に寄せて宮殿へと向かう必要もなかった。
思えば、あの悪夢から目覚め以来、こうして一人っきりの時間を持つのは初めてだった。アレクサンドラを帰国させ、絶望感に苛まれた時も必ずミケーレとヴァシリキが、そして下僕たちが常にアントニウスの傍に控えていた。
(・・・・・・・・きっと、アレクサンドラは私の事を酷い男だと思っている。もう二度と、許してはくれないだろう・・・・・・・・)
涙が溢れ、アントニウスは湯船の湯でそれをぬぐった。
「・・・・・・アレクサンドラ・・・・・・」
涙をぬぐっても嗚咽は漏れてしまった。しかし、そこにアントニウスの漏らした嘆きを聞く者はいなかった。
しばらくの間、悲しみに浸ったアントニウスは、すべてを飲み込み、何事もなかったかのように風呂から上がり、バスローブを羽織って浴室を出た。
「長湯でしたので、心配しておりました」
ミケーレは言うと、濡れたバスローブを脱がせ、新しいシルクのガウンを着せてくれた。
「夕食は、部屋で摂る。それまで、休ませてくれ。それから、溜まっている手紙には明日目を通す」
アントニウスは言うと、ベッドではなくカウチに横たわり、晴れわたる窓の外を見つめた。
☆☆☆
しばらくして、届いた通知に参謀部の全員が狂喜乱舞した。
「全面降伏か・・・・・・」
アントニウスは噛みしめるように言った。
「大尉、おめでとうございます。負傷されて尚、次々とポレモスを打ち倒す計画を立てられた大尉の功績は素晴らしく、大尉の従卒としてお仕えすることができたことを光栄に思っております」
ヴァシリキの言葉に、アントニウスは少し微妙な表情で礼を言った。
「俺の従卒でなければ、余計な苦労をしなくても済んだところを随分、苦労をさせてしまったと思っている」
「とんでもございません。大尉の計画がなければ、ポレモスが完全降伏することはなかったと思っております」
ヴァシリキは胸を張って言ったが、アントニウスは失ったものが多すぎて素直には喜べなかった。
「確かに、終戦までに私が車椅子を使わずに過ごせるようになって良かったと言うべきだろうな。我が家の下僕だけでは、上り下りが不安だからな」
寂しげな笑みを浮かべて言うアントニウスに、ロベルトは膝を折ってアントニウスを見上げた。
「大尉、自分は大尉が快癒されるまで、大尉のトレーニングをお手伝いするつもりでございます。ですから、そのような悲し気な表情をなさらないでください」
ヴァシリキの言葉はありがたかったが、参謀室に籍を置くだけのアントニウスと違い、ヴァシリキは陸軍より参謀室付けとして派遣されているだけで、戦争が終われば新たな任務に就かねばならない。特に、ポレモスの全面降伏と言うこの喜ばしい状態であることから、イルデランザの属国としてポレモスという国を維持するのか、それとも、ポレモスをイルデランザ領として完全に征服してしまうのか、その対応によって、今後の陸軍の任務が多岐にわたることは明らかだった。
「ヴァシリキ、本日、ただ今を持って、私、メルクーリ大尉付きの任を解く。直ちに、部隊に戻り、今後の任務に誠心誠意尽くすように。伍長、君の献身的な働きに感謝する」
アントニウスは参謀室にいる全員に聞こえる声で宣言した。
「大尉・・・・・・」
ヴァシリキは茫然とした表情を浮かべたが、正式に解任された今、一軍人として命令に反することはできなかった。
「大尉にお仕えできたこと、一生忘れません。では、これで失礼いたします」
ヴァシリキは敬礼し、深々と頭を下げてから参謀室を後にした。
ヴァリシキを見送ったアントニウスは、参謀室を後にすると杖を突きながら上官であるヨルギア・コリントス中将の執務室を訪ね、終戦の祝いと、ポレモスの降伏の喜びを交わした。
そして、健康上の理由から再び参謀室を離れる許可を貰うと、そのまま車付けまで向かった。
参謀本部で務めを果たしている間は、ヴァリシキがいるのでミケーレは同道していない、仕事に復帰し、杖を使って歩くことができるようになってから初めて、アントニウスは宮殿の中を一人で進んだ。
通りすがりの制服姿の下士官や宮殿の使用人達がアントニウスに敬意を払って礼をとったが、アントニウスは逃げるようにして通り過ぎ、車付けで馬車を呼ばせると、何とか自力で馬車に乗り込み屋敷へ帰った。
門番からの知らせで玄関の外まで迎えに出てきていたミケーレの手を借り、アントニウスが屋敷に入ると、マリー・ルイーズが待ち構えたように正面に立ちふさがった。
「アントニウス、話があります」
マリー・ルイーズがアントニウスと話したがることと言えば、アレクサンドラの事以外には考えられない。
「母上、やっとポレモスが降伏したとはいえ、私の足が治ったわけではありません。私は、足が治るまで、誰との結婚も考えるつもりはありません」
アントニウスの言葉にマリー・ルイーズが顔色を曇らせた。
「誰ともという事は、私が知るほかにも花嫁候補がいるという事ですか?」
マリー・ルイーズにしてみれば、アントニウスの花嫁候補はアレクサンドラ以外にあり得ず、グランフェルド大公女との婚約の話にも、アントニウスとは性格が合わないだろうと、消極的だった。それだけに、アレクサンドラを冷たく帰国させた挙句、他に候補の女性がいるとなれば、十年に一度と言われる激しい夫婦喧嘩が予想され、最終的にはマリー・ルイーズが『国に帰らせて戴きます』と言って帰国し、慌てた父がアントニウスにマリー・ルイーズの様子を見に行かせるというのがお決まりだが、アレクサンドラと言う重要人物がエイゼンシュタインにいる今、父がそうそう気軽にアントニウスに国境を越えさせるとは思えなかった。
「母上、私の花嫁候補がこの世に何人いるか知りませんが、戦地から戻った父上と大喧嘩をしても、いつものように私が母上の様子を見に行かされることはないと思われたほうがよろしいですよ」
「アントニウス……。まさか、反対したのはお父様で、あなたは意に沿わぬ行動をとらされているのでは?」
マリー・ルイーズは躊躇いがちに問いかけた。
「母上、私は、腐ってもアントニウス・メルクーリ。ザッカローネ公爵家の嫡男。父の許す範囲でしか自由に暮らすことのできない、そういう星の下に生まれた男だというのが私の答えです。では、足が痛いので失礼します」
アントニウスは痛い足を折り、母に敬意を表してお辞儀をしてから、ミケーレの手を借りて階段を上って自室に向かった。
自室に入ると、やっと戦争が終わったという実感がわいた。
「アントニウス様、本日は良い知らせがございましたので、お風呂の用意をさせてございます。お入りになられますか?」
ポレモス降伏の知らせは、公爵家であれば当然すぐに届いていたのだろう。ミケーレは更に『お夕食は、いつもより料理の量と種類を増やさせておきましたので、ダイニングでゆっくりとお召し上がりになれます』と続けた。
「ミケーレ、今は、母上とは顔を合わせたくない。・・・・・・着替えさせてくれ」
ミケーレは『かしこまりました』と答えると、すぐにアントニウスの上着を脱がせ、アントニウスがシャツのボタンを外している間に軍服の上着から勲章を取り外し、丁寧にそれをチェストの上に並べた。
アントニウスがシャツを脱ぐのに合わせ、シルクのガウンを羽織らせると、アントニウスの脱いだズボンから軍服用のベルトを外し、ドレッシング・カウチにアントニウスが腰を下ろすのを待って靴と靴下を脱がせて部屋履きに履き替えさせた。
「バスルームには、私も参りましょうか?」
いつも、急いで風呂に入るときは、ミケーレに傍に控えてもらい、入浴を手伝ってもらっていたアントニウスだったが、急ぐ必要のない今日は、一人でゆっくりと湯につかりたかった。
「いや、一人でいい。何かあったら呼ぶから心配しなくていい」
アントニウスは言うと、立ち上がりバスルームの扉をくぐった。
衝立の奥にある猫足のバスタブに整えられた湯を見つめ、アントニウスはガウンを脱ぎ、下穿きを脱ぐとバスタブのへりに腰かけ、杖から手を放すと湯に浸かった。
衣服の乱れは心の乱れ、強いては軍紀をも乱すと、毎日、下士官たちの見本となるようにきっちりと制服を着、重い勲章をぶら下げ、不自由な足でよくも参謀室の任務を務めあげたものだと、アントニウスは自分で自分を褒めたかった。
何度、家も名前も捨て、国も捨ててアレクサンドラの元へ向かいたいと思ったことか。かつての裕福でないアーチボルト伯爵の令嬢であったなら、面会も叶ったかもしれないが、公爵家の令嬢ともなれば話は違う。専属のメイドは一人ではないだろうし、国もファーレンハイト伯爵の地位も失ったアントニウスに面会の叶う相手ではない。そう思うと、あの日父の命令に従った自分が憎く、アントニウスは自分の体を痛めるような働き方を続けてきた。しかし、長かった戦争は終わり、明日からは朝寝坊をしても慌てて着替えさせられることもなく、沈黙の圧力に負けて朝食のトレイを脇に寄せて宮殿へと向かう必要もなかった。
思えば、あの悪夢から目覚め以来、こうして一人っきりの時間を持つのは初めてだった。アレクサンドラを帰国させ、絶望感に苛まれた時も必ずミケーレとヴァシリキが、そして下僕たちが常にアントニウスの傍に控えていた。
(・・・・・・・・きっと、アレクサンドラは私の事を酷い男だと思っている。もう二度と、許してはくれないだろう・・・・・・・・)
涙が溢れ、アントニウスは湯船の湯でそれをぬぐった。
「・・・・・・アレクサンドラ・・・・・・」
涙をぬぐっても嗚咽は漏れてしまった。しかし、そこにアントニウスの漏らした嘆きを聞く者はいなかった。
しばらくの間、悲しみに浸ったアントニウスは、すべてを飲み込み、何事もなかったかのように風呂から上がり、バスローブを羽織って浴室を出た。
「長湯でしたので、心配しておりました」
ミケーレは言うと、濡れたバスローブを脱がせ、新しいシルクのガウンを着せてくれた。
「夕食は、部屋で摂る。それまで、休ませてくれ。それから、溜まっている手紙には明日目を通す」
アントニウスは言うと、ベッドではなくカウチに横たわり、晴れわたる窓の外を見つめた。
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