初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
杖での歩行に支障がなくなったアントニウスは、乗馬を再開し、更には杖なしでも歩けるようにする練習に専念していた。
なかば、人生を投げ捨てたように暮らしていたアントニウスが突然魂を吹き込まれたかのように練習に励む姿にマリー・ルイーズは喜びの涙を流していた。
屋敷から程よく離れた場所まで馬を走らせたアントニウスは、今朝届いたばかりの手紙を取り出して開いた。
もう、見慣れた先代ホーエンバウム公爵夫人の文字を食い入るようにアントニウスは読んだ。
手紙には、最近のアレクサンドラの様子が記されており、ロベルトからジャスティーヌを介して、アントニウスの気持ちを知らされたアレクサンドラが以前より生き生きとしていること、そして、アレクサンドラも心からアントニウスを想っていると知り、アントニウスはとにかく歩けるようにならなくてはと努力を続けていた。
夜会が開かれるようになっても、アレクサンドラはどうしても出席しなくてはならない夜会以外には出席せず、かつてのように屋敷に引きこもり、外出先はビクトリアの屋敷か、ビクトリアに付き合って出かけるくらいで、サロンにも姿を見せない暮らしをしているが、ジャスティーヌに瓜二つのアレクサンドラには山のような縁談が持ち掛けられており、アレクサンドラはビクトリアの庇護の下、なんとか結婚を回避している様子にアントニウスは激しく胸が痛んだ。
アレクサンドラの苦しい状況を知るに至り、アントニウスの中に一つの決心が生まれようとしていた。それは、公爵家嫡男、大公位継承権第三位である立場を捨て、国を捨て、アレクサンドラの傍に、下僕としてでも、馬蹄でもいいから、ホーエンバウム公爵家に奉公し、アレクサンドラがついてきてくれるならば、二人で全てを捨てて逃げるというものだった。しかし、それと同時に、何一つ不自由のない公爵令嬢と言う身分を手に入れたアレクサンドラは、流浪の民に貶め、再び生活苦を味合わせる事になることに、アントニウスは激しい葛藤も抱いていた。
アントニウスが国も家も捨てることが認められたとして、持ち出せる資産には限りがあるし、その時点でアントニウスは貴族と言うこの世での絶対的な特権を失ってしまう。アレクサンドラがついて来てくれたとして、アレクサンドラも親の認めぬ男に嫁げば公爵令嬢と言う身分を失う事になる。アントニウスにしろ、アレクサンドラにしろ、生まれた時から貴族の子女として傅かれて育った身が、その特権を失って暮らしていかれるのか、果たしてそれが本当の幸せになるのかと、アントニウスは苦悶するばかりだった。
すべてを吹き飛ばすように、一駆け馬を走らせ、アントニウスは手紙の返事を書くために屋敷へと向かった。
馬蹄に馬を任せ、屋敷の飛びをくぐったアントニウスを待ち受けていたのは母のマリー・ルイーズだった。
「おかえりなさい、アントニウス」
「母上、急ぎの手紙を書かなくてはならないので、失礼します」
階段へと向かうアントニウスの腕をマリー・ルイーズが掴んだ。
「待ちなさい、アントニウス。話があるのです」
縋るマリー・ルイーズに、アントニウスは鋭い視線を走らせた。
「放してください。母上にお話することは何もありません」
マリー・ルイーズの手を振り払おうとした瞬間、手に持った杖が手から離れ床に転がった。
「私の話を聞くまで、この手は放しません」
真剣なまなざしを向けるマリー・ルイーズに、アントニウスは仕方なく『五分だけなら』と答えた。
事の成り行きを見守っていたミケーレが走り寄り、杖をアントニウスに手渡した。
一階のサロンに場所を変え、マリー・ルイーズは人払いをするとアントニウスの向かいに腰を下ろした。
「アレクサンドラさんの事です」
マリー・ルイーズの言葉に、アントニウスは頭を横に振った。
「今さら、母上と何を話す必要があるのですか?」
すぐにも立ち上がりたかったが、気を利かせたのか、マリー・ルイーズの仕業か、杖を持ったミケーレは戸口脇に控えているので、立ち上がっても歩き去ることはできなかった。
「では、あなたはお父様の持っていらした縁談を受けるつもりがあるのですか?」
先日、まだ戦後の最終調整のためにポレモスに赴いている父のアラミスが送って寄こした、想定外の縁談の相手は、よりにもよってポレモスの旧体制の中心人物の娘との縁談だった。
「母上、受けるつもりなど、毛頭ありません」
アントニウスが答えると、マリー・ルイーズはホッとしたようだった。
「母上が人払いまでして聞きたいのは、なんです? 私がまだアレクサンドラを愛しているのかという事ですか? それならば、答えは簡単です。私は、心からアレクサンドラを愛しています。他の誰とも結婚するつもりはありません」
アントニウスが言い切ると、マリー・ルイーズは更に安心したようだった。
「近々、大公に正式に謁見する予定です。その場で、私がアレクサンドラ以外の誰とも結婚する意志のないことを大公に直接お伝えするつもりです。例え、アレクサンドラが誰かに嫁いだとしても、私の気持ちは変わりません」
アントニウスの言葉に、マリー・ルイーズは答えを見つけられないのか、何も言わずに沈黙した。
「これでよろしいですか? もう、五分経ちましたから、失礼いたします。ミケーレ!」
アントニウスはマリー・ルイーズの返事を待たず、ミケーレを呼ぶと椅子から立ち上がり、杖を手に歩き去ろうとした。
「アントニウス、お従兄様から、アレクサンドラさんをあなたに嫁がせる事は考えなおしたいと、お手紙を戴きました」
八方ふさがりなのは、アントニウスにも良くわかっていた。父のアラミスが取った最善と思われる対応が、最悪の結果を導き出していることもよくわかっていた。
「それならば、イルデランザのザッカローネ公爵家嫡男である事を止めるしかありませんね」
アントニウスが言うと、マリー・ルイーズが息を飲んだ。
「何を言っているのです、あなたは、公爵家の跡取りであるだけでなく、大公位の継承権を持っているのですよ」
マリー・ルイーズの声が自然と大きくなった。
「では母上、私に死ねとおっしゃってください」
「アントニウス・・・・・・」
「アレクサンドラに求婚を断られたのなら、諦めて父上の薦める方であろうが、母上のお気に入りの娘であろうが甘んじて結婚しましょう。でも、愚かな私が父上の命に従い、私のために生涯を捧げるつもりで尽くしてくれたアレクサンドラを国に帰したのです。この私の愚かさが、どれほど罪深いか、母上ならお判りのはずです。ですから、アレクサンドラを慕う私の行いを咎めるなら、阻むなら、いっそ私に死ねとおっしゃってください」
アントニウスは言うと、マリー・ルイーズに向き直った。
「いまだからお話しましょう。私が目覚めない間、どんな夢を見ていたかお教えしましょう。私は、意識のない間、ずっとアレクサンドラを誰かに奪われ悲嘆にくれる夢を見続けていたのです。その私が、目覚めてアレクサンドラが傍に居てくれると渡った時、どれだけ救われたかお判りですか? それなのに、私は、愚かにも彼女を手放したのです。この愚行は、万死に値します!」
アントニウスの全身アレクサンドラを愛し求めていることをマリー・ルイーズは感じた。そして、本来ならばその思いはめでたく叶ったはずなのに、アントニウスは父の命令に従い、一度はアレクサンドラを手放したが、アレクサンドラからの拒絶を受けるまでアレクサンドラを諦めるつもりがないことをはっきりとマリー・ルイーズの前に証し、そして、アレクサンドラのためには、国も、親も、身分も、何もかも捨てる意思がある事を証していた。
「アレクサンドラさんを妻に迎えることに異存はありません。私も、アレクサンドラさんは素晴らしい女性だと思っています。でも、あのようにすげなく帰国させたあなたをアレクサンドラさんはまだ思っていてくれるでしょうか?」
マリー・ルイーズが口にした疑問は、先代ホーエンバウム公爵夫人、ビクトリアから手紙を貰うまでのアントニウス自身の疑問だった。だが、アレクサンドラが自分を想っていてくれることを知ったアントニウスには、恐れるものは何もなかった。
「母上、私は、足が良く成り次第、エイゼンシュタインに向かい、アレクサンドラにもう一度求婚します。それを妨げるのならば、国も家も何もかも捨てる覚悟はもうできています。母上から、父上にはそうお伝えください。私の言葉は父上の耳には入りませんから」
アントニウスは言うと、マリー・ルイーズが答える前にサロンを後にした。
☆☆☆
なかば、人生を投げ捨てたように暮らしていたアントニウスが突然魂を吹き込まれたかのように練習に励む姿にマリー・ルイーズは喜びの涙を流していた。
屋敷から程よく離れた場所まで馬を走らせたアントニウスは、今朝届いたばかりの手紙を取り出して開いた。
もう、見慣れた先代ホーエンバウム公爵夫人の文字を食い入るようにアントニウスは読んだ。
手紙には、最近のアレクサンドラの様子が記されており、ロベルトからジャスティーヌを介して、アントニウスの気持ちを知らされたアレクサンドラが以前より生き生きとしていること、そして、アレクサンドラも心からアントニウスを想っていると知り、アントニウスはとにかく歩けるようにならなくてはと努力を続けていた。
夜会が開かれるようになっても、アレクサンドラはどうしても出席しなくてはならない夜会以外には出席せず、かつてのように屋敷に引きこもり、外出先はビクトリアの屋敷か、ビクトリアに付き合って出かけるくらいで、サロンにも姿を見せない暮らしをしているが、ジャスティーヌに瓜二つのアレクサンドラには山のような縁談が持ち掛けられており、アレクサンドラはビクトリアの庇護の下、なんとか結婚を回避している様子にアントニウスは激しく胸が痛んだ。
アレクサンドラの苦しい状況を知るに至り、アントニウスの中に一つの決心が生まれようとしていた。それは、公爵家嫡男、大公位継承権第三位である立場を捨て、国を捨て、アレクサンドラの傍に、下僕としてでも、馬蹄でもいいから、ホーエンバウム公爵家に奉公し、アレクサンドラがついてきてくれるならば、二人で全てを捨てて逃げるというものだった。しかし、それと同時に、何一つ不自由のない公爵令嬢と言う身分を手に入れたアレクサンドラは、流浪の民に貶め、再び生活苦を味合わせる事になることに、アントニウスは激しい葛藤も抱いていた。
アントニウスが国も家も捨てることが認められたとして、持ち出せる資産には限りがあるし、その時点でアントニウスは貴族と言うこの世での絶対的な特権を失ってしまう。アレクサンドラがついて来てくれたとして、アレクサンドラも親の認めぬ男に嫁げば公爵令嬢と言う身分を失う事になる。アントニウスにしろ、アレクサンドラにしろ、生まれた時から貴族の子女として傅かれて育った身が、その特権を失って暮らしていかれるのか、果たしてそれが本当の幸せになるのかと、アントニウスは苦悶するばかりだった。
すべてを吹き飛ばすように、一駆け馬を走らせ、アントニウスは手紙の返事を書くために屋敷へと向かった。
馬蹄に馬を任せ、屋敷の飛びをくぐったアントニウスを待ち受けていたのは母のマリー・ルイーズだった。
「おかえりなさい、アントニウス」
「母上、急ぎの手紙を書かなくてはならないので、失礼します」
階段へと向かうアントニウスの腕をマリー・ルイーズが掴んだ。
「待ちなさい、アントニウス。話があるのです」
縋るマリー・ルイーズに、アントニウスは鋭い視線を走らせた。
「放してください。母上にお話することは何もありません」
マリー・ルイーズの手を振り払おうとした瞬間、手に持った杖が手から離れ床に転がった。
「私の話を聞くまで、この手は放しません」
真剣なまなざしを向けるマリー・ルイーズに、アントニウスは仕方なく『五分だけなら』と答えた。
事の成り行きを見守っていたミケーレが走り寄り、杖をアントニウスに手渡した。
一階のサロンに場所を変え、マリー・ルイーズは人払いをするとアントニウスの向かいに腰を下ろした。
「アレクサンドラさんの事です」
マリー・ルイーズの言葉に、アントニウスは頭を横に振った。
「今さら、母上と何を話す必要があるのですか?」
すぐにも立ち上がりたかったが、気を利かせたのか、マリー・ルイーズの仕業か、杖を持ったミケーレは戸口脇に控えているので、立ち上がっても歩き去ることはできなかった。
「では、あなたはお父様の持っていらした縁談を受けるつもりがあるのですか?」
先日、まだ戦後の最終調整のためにポレモスに赴いている父のアラミスが送って寄こした、想定外の縁談の相手は、よりにもよってポレモスの旧体制の中心人物の娘との縁談だった。
「母上、受けるつもりなど、毛頭ありません」
アントニウスが答えると、マリー・ルイーズはホッとしたようだった。
「母上が人払いまでして聞きたいのは、なんです? 私がまだアレクサンドラを愛しているのかという事ですか? それならば、答えは簡単です。私は、心からアレクサンドラを愛しています。他の誰とも結婚するつもりはありません」
アントニウスが言い切ると、マリー・ルイーズは更に安心したようだった。
「近々、大公に正式に謁見する予定です。その場で、私がアレクサンドラ以外の誰とも結婚する意志のないことを大公に直接お伝えするつもりです。例え、アレクサンドラが誰かに嫁いだとしても、私の気持ちは変わりません」
アントニウスの言葉に、マリー・ルイーズは答えを見つけられないのか、何も言わずに沈黙した。
「これでよろしいですか? もう、五分経ちましたから、失礼いたします。ミケーレ!」
アントニウスはマリー・ルイーズの返事を待たず、ミケーレを呼ぶと椅子から立ち上がり、杖を手に歩き去ろうとした。
「アントニウス、お従兄様から、アレクサンドラさんをあなたに嫁がせる事は考えなおしたいと、お手紙を戴きました」
八方ふさがりなのは、アントニウスにも良くわかっていた。父のアラミスが取った最善と思われる対応が、最悪の結果を導き出していることもよくわかっていた。
「それならば、イルデランザのザッカローネ公爵家嫡男である事を止めるしかありませんね」
アントニウスが言うと、マリー・ルイーズが息を飲んだ。
「何を言っているのです、あなたは、公爵家の跡取りであるだけでなく、大公位の継承権を持っているのですよ」
マリー・ルイーズの声が自然と大きくなった。
「では母上、私に死ねとおっしゃってください」
「アントニウス・・・・・・」
「アレクサンドラに求婚を断られたのなら、諦めて父上の薦める方であろうが、母上のお気に入りの娘であろうが甘んじて結婚しましょう。でも、愚かな私が父上の命に従い、私のために生涯を捧げるつもりで尽くしてくれたアレクサンドラを国に帰したのです。この私の愚かさが、どれほど罪深いか、母上ならお判りのはずです。ですから、アレクサンドラを慕う私の行いを咎めるなら、阻むなら、いっそ私に死ねとおっしゃってください」
アントニウスは言うと、マリー・ルイーズに向き直った。
「いまだからお話しましょう。私が目覚めない間、どんな夢を見ていたかお教えしましょう。私は、意識のない間、ずっとアレクサンドラを誰かに奪われ悲嘆にくれる夢を見続けていたのです。その私が、目覚めてアレクサンドラが傍に居てくれると渡った時、どれだけ救われたかお判りですか? それなのに、私は、愚かにも彼女を手放したのです。この愚行は、万死に値します!」
アントニウスの全身アレクサンドラを愛し求めていることをマリー・ルイーズは感じた。そして、本来ならばその思いはめでたく叶ったはずなのに、アントニウスは父の命令に従い、一度はアレクサンドラを手放したが、アレクサンドラからの拒絶を受けるまでアレクサンドラを諦めるつもりがないことをはっきりとマリー・ルイーズの前に証し、そして、アレクサンドラのためには、国も、親も、身分も、何もかも捨てる意思がある事を証していた。
「アレクサンドラさんを妻に迎えることに異存はありません。私も、アレクサンドラさんは素晴らしい女性だと思っています。でも、あのようにすげなく帰国させたあなたをアレクサンドラさんはまだ思っていてくれるでしょうか?」
マリー・ルイーズが口にした疑問は、先代ホーエンバウム公爵夫人、ビクトリアから手紙を貰うまでのアントニウス自身の疑問だった。だが、アレクサンドラが自分を想っていてくれることを知ったアントニウスには、恐れるものは何もなかった。
「母上、私は、足が良く成り次第、エイゼンシュタインに向かい、アレクサンドラにもう一度求婚します。それを妨げるのならば、国も家も何もかも捨てる覚悟はもうできています。母上から、父上にはそうお伝えください。私の言葉は父上の耳には入りませんから」
アントニウスは言うと、マリー・ルイーズが答える前にサロンを後にした。
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