初恋の君に真紅の薔薇の花束を・・・
朝食を終えてアレクサンドラが私室に戻ると、ドーンと言った風情で巨大な花束が机の上でアレクサンドラの帰りを待っていた。
 その朝露をたたえた真紅の花弁は、まるで上質のビロードのように艶やかだった。
「ジャスティーヌ、間違って花束が私のところに来てるよ」
 続きの扉らからアレクサンドラが声をかけると、ジャスティーヌは可愛いブーケを手に振り向いた。
「間違ってないと思うわ。アントニウス様からだから」
 ジャスティーヌの返事に、アレクサンドラは慌てて花束に添えられたカードを確認した。
『愛しのアレクサンドラ嬢 あなたの美しさの前には陰りを帯びてしまうでしょうが、心からの想いをこめて アントニウス』
 歯の浮きそうな口説き文句が並べられていたが、あのアントニウスが本気で自分に恋をしているはずもなく、ただ周りの目をくらますためだけに、こんな愛の言葉を並べてくることにアレクサンドラは怒りすら感じた。
「私のは可愛いブーケだったけど、アレクのは?」
 アレクサンドラの部屋を覗き込んだジャスティーヌは、あまりに見事な真紅のバラに心を奪われて花束の傍へと歩み寄ってきた。
「すごいわ。こんなに見事なバラ、めったに見ることがないわ」
 真紅のバラの花を集めるのも難しいが、このバラは特に花が大振りで、あまりエイゼンシュタインでは見ない種類のバラだった。
「気に入ったんなら、ジャスティーヌにあげるよ」
 アレクサンドラが言うと、ジャスティーヌが頭を横に振った。
「だめよ。これはアレク宛なんだから」
「そんなの、相手はジャスティーヌが一人二役してるの知らないんだから、ジャスティーヌが持っていたって問題ないよ」
 言いながら、アレクサンドラは心の中で『本当は一人二役って知ってるんだけどね』とつぶやいた。
「だめよ。だって、アレクだって言っていたじゃない。もう、一人二役は難しいから、そろそろアレクがちゃんとアレクサンドラに戻るって。だとしたら、アントニウス様の求婚を受けるのはアレクなんだし、筆跡が違うのは後々まずいわ」
 ジャスティーヌの言葉は尤もだったが『求婚を受ける』という表現にアレクサンドラは額に皺を寄せた。
「私が結婚するわけないでしょう!」
「違うわよ。求婚を受けるっていうのは、実際に承諾するってことじゃなくて、愛の言葉を囁かれるのを聞いたり、受け流したり、そういうことを言っているのよ」
「ヒヤシンスの球根なら、幾らでも貰ってやるっていうよ」
「アレク、相手はイルデランザの侯爵家の嫡男、お父様は現大公の従兄なのよ。あなたの不注意な発言で、両国が険悪になることだってあり得るのよ」
 さすがに、女ながらに政治にも歴史にも精通しているジャスティーヌは、的確に問題を指摘してきた。
「もともと、イルデランザに国王陛下の従妹姫、マリー・ルイーズ様が嫁ぐことになったのは、過去の国境線での小競り合いに端を発する両国間のダイヤモンド鉱山の利権をめぐる不仲を鎮めるためで、それなのに、なぜか当時皇嗣であられた現大公ではなく、その従兄にあたるザッカローネ侯爵家の嫡男であられた、アントニウス様のお父様と結婚することになり、その代わりに両国は終生の和平条約に調印することにしたの。でも、その代償に、エイゼンシュタインは国境線のダイヤモンド鉱山の権利を放棄して、国境線を超えても、同じ山であれば、産出したダイヤモンドの権利はエイゼンシュタインではなく、イルデランザにあることを和平条約の主軸にしたのよ。ただし、その代わりに、金鉱とプラチナ鉱山はエイゼンシュタインに属することにしてね。これで、金属はエイゼンシュタイン、ダイヤモンドはイルデランザで産出し、加工をそれぞれの国で行うことで、同盟国間で流通するダイヤモンド装飾品を共同で輸出するというビジネスモデルが具体的に導入され、かつてないほどイルデランザとエイゼンシュタインは平和になったのよ。何しろ、イルデランザには、六ヶ国同盟に参加していない別の国からのアプローチもあるようで、和平条約の締結とともに、イルデランザへの貴金属の輸出に関わる関税の調整と、イルデランザからのダイヤモンドの輸入に関わる関税の調整が同時に行われたのよ」
 さらに続けようとするジャスティーヌに、アレクサンドラは白旗を上げた。
「なんで、ジャスティーヌは、男に生まれてこなかったのさ。ほんと、政治も経済も、言葉も分かる。男だったら、六ヶ国の同盟国のどこの駐留大使にでもなれたのに」
 アレクサンドラは言うと、大きなため息をついた。
「僕は、外側だけの男。ジャスティーヌは、外側だけ女だよね」
「そんなことないわ。私は、中身も女の子よ」
 頬を膨らませて言うジャスティーヌに、アレクサンドラは確かに中身も女の子なんだなと再確認した。
「確かに、ジャスティーヌは刺繍も、レース編みも、ダンスも、何もかも得意。女の子の鏡だよね。立ち居振る舞いも、お姫様顔負けって言われてるし。それに比べて、僕はなに? 女ったらしで、大酒飲みで、田舎から出て来た伯爵家の遠縁筋の爵位もない、ただのジゴロ・・・・・・。あ、でも、さすがに僕だって、女性に貢がせたりはしてないよ・・・・・・。たぶん・・・・・・」
 段々にアレクサンドラの声が小さくなるのは、婦人方から貰った高価なプレゼントのことを思い出したからだった。
「だいたい、僕は、体は女なんだから、することはしてないし・・・・・・。えって、ことは、それって単なる詐欺師ってこと?」
 話題が男女の色事に及ぶと、ジャスティーヌは『アレクのバカ!』と言い残して自分の部屋に戻っていった。
「つまり、この花束のお礼は、僕が書くってことか・・・・・・」
 アレクサンドラはため息をつくと、机に向かった。
 アレクサンドラだって女の子なので、決して花は嫌いではない。これが純粋に自分のことを想ってくれる誰かから贈られたのなら、悪い気はしないし、胸もときめいたかもしれない。しかし、相手が自分の秘密を知り、それをネタに自分に無理難題を突き付けている相手となれば、迷惑に感じても、嬉しさは欠片も感じなかった。
 ましてや、『自分のことを惚れさせてみろ』だの『その気にしてみろ』などと言われては、バラの花には可哀そうだが、ゴミ箱に突っ込んでしまいたいという衝動を抑えるのが精一杯だった。
 アレクサンドラとしては、一生、惚れてもらいたくもないし、その気になんて、できれば絶対になって欲しくなかった。何しろ、惚れられて、その気に等なられたら、危うくなるのはアレクサンドラ自身の貞節だからだ。
 できれば、何も見なかった、何も知らなかったことにして、とっととどこかの貴族の娘と恋仲になり、さっさと嫁を貰って国に帰ってほしいというのが本心だった。
 しかし、もしアレクサンドラが命令に従わず、アントニウスに対して何もアプローチをしなければ、アントニウスにはジャスティーヌの幸せをぶち壊し、アーチボルト伯爵家の存続を危うくするだけでなく、優しい父が罪人として断首の刑にさせられるかもしれないという、最悪の結果をもたらすことができるのだ。
 そんなことを考えていると、手に持った羽ペンからインクがポタリと紙の上に落ち、まるで血のようにアーチボルト伯爵家の紋章を濡らしていった。
 ジャスティーヌが社交界にデビューした時、遠縁のアレクシスは田舎に帰り、アレクサンドラとして一緒にデビューしようと、何度もジャスティーヌが説得してくれたのを茶化して断った自分が今から考えるとどれほど愚かで、恐れ知らずだったのかがよく分かった。きっと、賢いジャスティーヌは、いずれこういう日が来ることをずっと前から心配していたのだ。多分、母も。だが、おおらかで、妙にドーンと構えている父に性格が似てしまったのか、アレクサンドラは自分なら、何とでも問題を掌握することができると、ずっと過信していた。そのツケがとうとう回ってきたのだと、アレクサンドラは考えながらペンを置くと、真っ青にインクで濡れた紋章付きのレターパッドを綺麗に折りたたみ、机のわきの屑籠に落とした。
 アレクシスとして、女性宛の手紙は何度も書いたことがあるが、男性相手の手紙など、友達宛の気やすい物しか書いたことがないアレクサンドラには、どう考えても女性らしい文章など思い浮かんですら来なかった。
 しばらく机に向かって考えたアレクサンドラは、再び白旗を上げることにした。
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