先生と私の見えない赤い糸
***
放課後、一緒に帰ろうというクラスメートの誘いを断り、ひとりで図書室に来ていた。
うちの学校の図書室は蔵書数が少ない上に古臭い本ばかりで、生徒にまったく人気がないため閑古鳥状態だった。小説を集中して執筆するには、適した場所となっている。
本棚に囲まれたこの感じが三木先生の家に似ていることもあり、何気に落ち着くのもポイントが高かった。
ふたつめの利点は――。
「この分厚い国語辞典が、使いたい放題なのがミソなんだよね」
言葉の意味なんて、スマホや電子辞書で調べればいいと思っていた。それなのに
三木先生は憮然とした面持ちのまま、私のことを思いっきりバカにした言葉を吐き捨てた。
『そんなモノで調べるなバカ者! いいか、調べている内に前後の文字が目に入るだろ。そこから自然と、ボキャブラリー数が増えていくんだ。辞典で調べるのが慣れれば、ものの5秒でカタがつく』
たとえ前後の文字が目に入ったとしても天才じゃない私の頭は、絶対に覚えていないと思うんだけど……。
『あと指先を使うことによって、脳が刺激されるんだ。面倒くさがらずに、辞典を使いなさい。いいな!』
そう言って、国語辞典を私に押し付けた三木先生。スマホでも、指先をめっちゃ使うのにさ。だけど反論しても覆されるのが目に見えるので、あえて言うことをきいた。
しかしこんな分厚い物を毎日持ち歩くことを考えたら、必然的に登下校が疲れてしまうので、図書室にある国語辞典に大変お世話になっているのである。
柔らかい日差しの傾きが、冬の短い日照時間を知らせる。図書室のほのかな暖かさが眠りを誘うけど、何とか我慢した。
「ここのところテスト勉強ばかりで、全然進んでいないからなぁ。うーんと……」
どこまで書いたっけと思いながら、ノートをぱらぱらめくっていった。そのとき突然両肩に触れた、あったかい重みに驚いて振り返る。
「思ったより、進んでいるじゃないか」
躊躇なく後ろからノートを覗き込む、三木先生とばっちり目が合う。予期せぬ唐突な至近距離に、心臓が一気に跳ね上がった。
「いえ、全然……。そんなには進んでないですけど」
どぎまぎしながら視線を目の前のノートに移し、なんとか答える。
(あー、ビックリした。まだドキドキしてるよ)
「んー? 僕が想像していたよりも、話が進んでるって。それに、随分と表現が良くなった。頑張ってるな偉いぞ、奈美」
三木先生に褒められちゃった。なんだかテレくさい。
(偉いぞ奈美って言われるなんて。ん? ちょっと待って!)
「名前で思い出した! 三木先生ってば今朝友達の前で、私のことを名前呼びしたでしょ」
「あー? そうだったっけ?」
顎を撫でながらぼんやり考える三木先生の姿からは、思い出せない感じが満載だった。
「学校では気をつけてください。私、先生とだけは変なウワサになりたくないんだから」
「あっさり傷つくことを、バッサリ言うんだな。はいはい、気をつけますよー」
ボサボサの頭を掻きながら、ふてくされたように言い放つ。
「気をつけついでに、もうすぐ下校の時間だ。学校帰り、気をつけて帰るんだぞ」
私の頭を乱暴に撫でてから、立ち去る背中に思わず言ってしまった。
「……家に帰りたくない、かも」
「ああ? また親父さんとケンカでもしたのか?」
「別にケンカとかなにもないけどさ……。帰ったら行きたくないパーティに行かなきゃならなくて、正直憂鬱なんだ。それなら先生の家で、これの続きを書きたい……」
私は俯きながら、胸の前でノートをぎゅっと抱きしめた。
「まったく、ワガママなお嬢様だな。奈美は」
三木先生は戻りかけた体の向きを変えて、わざわざこっちに戻って来る。机の上に置かれた国語辞典を手に取ると、奥の方にある書棚に戻してくれた。
「パーティがあるなら、いろいろと準備があるだろ。さっさと帰らなきゃダメじゃないか」
「でも……」
「デモもストも言語道断! さっさと立ち上がりなさい」
私が手に持っていたノートをぱっと取り上げて、無造作にカバンの中に入れられた。
ぶーたれたまま気だるげに席から立ちあがる私の前に、三木先生が立ち塞がって顔を覗き込む。
「奈美、そんなふうに可愛くない顔していると、パーティではモテないぞー」
言うやいなや私の前髪を大きな手でぱっとどけて、オデコにちゅっとキスをした。
「みっみっ、み~~~っ」
「なに、季節はずれのセミの鳴きマネしてんだ」
「だだだっ、だって……」
「あー? 今度は機関銃か? 忙しいヤツだなー」
三木先生から突然されたことに衝撃を受けて、私は意味なくオデコを触ってしまった。
多分真っ赤になっているであろう私の顔を見て、指を差しながらクスクス笑う三木先生。可笑しそうにしばらく笑ってから胸の前に両腕を組み、何度も頷きつつ口を開く。
「うんうん。さっきの顔より、こっちの顔が僕の好みだよ。いつも笑ってろ、そのほうが似合ってる」
なんと言っていいかわからず、途方に暮れる私の手に、三木先生はカバンを持たせた。そして図書室の扉へと背中を押し出していく。触れる三木先生の手を、どうしても意識せずにはいられなかった。
「奈美は、最後までイヤミなヤツだよな」
「は?」
「オデコを触って、さりげなく拭ったんだろ。やっぱ可愛くない!」
図書室から追い出すように乱暴に私の体を廊下へと出してから、身を翻すように職員室へ向かう大きな背中。左手をバイバイとひらひらさせながら去って行く三木先生の後ろ姿に、拭っているワケじゃないといいわけができなかった。
胸がドキドキするせいで、うまく言葉にならなかったから――。
放課後、一緒に帰ろうというクラスメートの誘いを断り、ひとりで図書室に来ていた。
うちの学校の図書室は蔵書数が少ない上に古臭い本ばかりで、生徒にまったく人気がないため閑古鳥状態だった。小説を集中して執筆するには、適した場所となっている。
本棚に囲まれたこの感じが三木先生の家に似ていることもあり、何気に落ち着くのもポイントが高かった。
ふたつめの利点は――。
「この分厚い国語辞典が、使いたい放題なのがミソなんだよね」
言葉の意味なんて、スマホや電子辞書で調べればいいと思っていた。それなのに
三木先生は憮然とした面持ちのまま、私のことを思いっきりバカにした言葉を吐き捨てた。
『そんなモノで調べるなバカ者! いいか、調べている内に前後の文字が目に入るだろ。そこから自然と、ボキャブラリー数が増えていくんだ。辞典で調べるのが慣れれば、ものの5秒でカタがつく』
たとえ前後の文字が目に入ったとしても天才じゃない私の頭は、絶対に覚えていないと思うんだけど……。
『あと指先を使うことによって、脳が刺激されるんだ。面倒くさがらずに、辞典を使いなさい。いいな!』
そう言って、国語辞典を私に押し付けた三木先生。スマホでも、指先をめっちゃ使うのにさ。だけど反論しても覆されるのが目に見えるので、あえて言うことをきいた。
しかしこんな分厚い物を毎日持ち歩くことを考えたら、必然的に登下校が疲れてしまうので、図書室にある国語辞典に大変お世話になっているのである。
柔らかい日差しの傾きが、冬の短い日照時間を知らせる。図書室のほのかな暖かさが眠りを誘うけど、何とか我慢した。
「ここのところテスト勉強ばかりで、全然進んでいないからなぁ。うーんと……」
どこまで書いたっけと思いながら、ノートをぱらぱらめくっていった。そのとき突然両肩に触れた、あったかい重みに驚いて振り返る。
「思ったより、進んでいるじゃないか」
躊躇なく後ろからノートを覗き込む、三木先生とばっちり目が合う。予期せぬ唐突な至近距離に、心臓が一気に跳ね上がった。
「いえ、全然……。そんなには進んでないですけど」
どぎまぎしながら視線を目の前のノートに移し、なんとか答える。
(あー、ビックリした。まだドキドキしてるよ)
「んー? 僕が想像していたよりも、話が進んでるって。それに、随分と表現が良くなった。頑張ってるな偉いぞ、奈美」
三木先生に褒められちゃった。なんだかテレくさい。
(偉いぞ奈美って言われるなんて。ん? ちょっと待って!)
「名前で思い出した! 三木先生ってば今朝友達の前で、私のことを名前呼びしたでしょ」
「あー? そうだったっけ?」
顎を撫でながらぼんやり考える三木先生の姿からは、思い出せない感じが満載だった。
「学校では気をつけてください。私、先生とだけは変なウワサになりたくないんだから」
「あっさり傷つくことを、バッサリ言うんだな。はいはい、気をつけますよー」
ボサボサの頭を掻きながら、ふてくされたように言い放つ。
「気をつけついでに、もうすぐ下校の時間だ。学校帰り、気をつけて帰るんだぞ」
私の頭を乱暴に撫でてから、立ち去る背中に思わず言ってしまった。
「……家に帰りたくない、かも」
「ああ? また親父さんとケンカでもしたのか?」
「別にケンカとかなにもないけどさ……。帰ったら行きたくないパーティに行かなきゃならなくて、正直憂鬱なんだ。それなら先生の家で、これの続きを書きたい……」
私は俯きながら、胸の前でノートをぎゅっと抱きしめた。
「まったく、ワガママなお嬢様だな。奈美は」
三木先生は戻りかけた体の向きを変えて、わざわざこっちに戻って来る。机の上に置かれた国語辞典を手に取ると、奥の方にある書棚に戻してくれた。
「パーティがあるなら、いろいろと準備があるだろ。さっさと帰らなきゃダメじゃないか」
「でも……」
「デモもストも言語道断! さっさと立ち上がりなさい」
私が手に持っていたノートをぱっと取り上げて、無造作にカバンの中に入れられた。
ぶーたれたまま気だるげに席から立ちあがる私の前に、三木先生が立ち塞がって顔を覗き込む。
「奈美、そんなふうに可愛くない顔していると、パーティではモテないぞー」
言うやいなや私の前髪を大きな手でぱっとどけて、オデコにちゅっとキスをした。
「みっみっ、み~~~っ」
「なに、季節はずれのセミの鳴きマネしてんだ」
「だだだっ、だって……」
「あー? 今度は機関銃か? 忙しいヤツだなー」
三木先生から突然されたことに衝撃を受けて、私は意味なくオデコを触ってしまった。
多分真っ赤になっているであろう私の顔を見て、指を差しながらクスクス笑う三木先生。可笑しそうにしばらく笑ってから胸の前に両腕を組み、何度も頷きつつ口を開く。
「うんうん。さっきの顔より、こっちの顔が僕の好みだよ。いつも笑ってろ、そのほうが似合ってる」
なんと言っていいかわからず、途方に暮れる私の手に、三木先生はカバンを持たせた。そして図書室の扉へと背中を押し出していく。触れる三木先生の手を、どうしても意識せずにはいられなかった。
「奈美は、最後までイヤミなヤツだよな」
「は?」
「オデコを触って、さりげなく拭ったんだろ。やっぱ可愛くない!」
図書室から追い出すように乱暴に私の体を廊下へと出してから、身を翻すように職員室へ向かう大きな背中。左手をバイバイとひらひらさせながら去って行く三木先生の後ろ姿に、拭っているワケじゃないといいわけができなかった。
胸がドキドキするせいで、うまく言葉にならなかったから――。