先生と私の見えない赤い糸
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なにもない、三木先生が住んでいたボロアパート。愛車のケロカーや先生の家に入るときにいつも目に留まった、かわいらしい手作りの郵便受けも、すべてがなくなっていた。
空っぽになった恋心を抱えて、泣きながら自宅に向かうしかできない自分。写真の女のコとの関係や持病のこと、東京のどこの病院に行ったのかすら教えてもらえないまま、忽然と消えてしまった三木先生。
『これが僕の気持ちだ、わかったか?』
そう言ってキスしてくれたけど、先生の口から直接、気持ちを聞いたワケじゃない。
私の好きと三木先生の好きは、種類が違っていたのかな。だからなにも言わずに、ゴミを捨てるように、私を置いて行ってしまったんだ。
マイナス思考で頭の中がいっぱいになる寸前で、自宅前に到着した。
(こんな早い時間にただいまなぁんて帰ったら、お母さんはきっとビックリするだろうな。学校に戻るのも、今更だし……)
なぁんてうだうだ考えながら玄関前に向かって歩いて行くと、郵便受けになにやら分厚くて大きな封筒が押し込まれていた。
「なんだろ、これ?」
恐るおそる引き抜いてみたら、封筒に安藤奈美様と見慣れた筆跡が青いペンで書かれていたことで、誰が差出人かすぐにわかってしまった。手に持っていたカバンを地面に放り投げて、封筒を手荒に破った。
中から出てきたのは、ボロボロに使い古された国語辞典だった。厚紙でできたカバーと辞典の間に、手紙のような物が挟まれていることに気がつく。辞典に挟まれてる手紙を慌てて引っ張り出し、辞典を小脇に抱えながら、ドキドキする胸を抑えつつ読んでみた。
『奈美へ
おまえが今、この手紙をどんな顔で読んでいるか。想像すると胸が痛くなるのは、何も告げないまま僕が東京に行ってしまったからだろう。
奈美に好きだと言われて、とても嬉しかった。はじめは僕のことをNHKなんてバカにしていたはずなのに、どうしてそんな感情を抱いたのか。性格同様におまえの感情は謎がとても多くて、相変わらず読めない。
出来損ないで中途半端な僕を好きになるなんて、正直なところ何かの罠かと思った。
だけど真っ赤な顔で、一生懸命に自分の気持ちをバカ正直に伝える姿を見て、己の心で感じた結果、教師としてはあるまじき行為をしてしまった。一時の感情からではなく、本当に奈美を心の奥底から愛おしいと思った。
おまえが心を込めて書いた作品に直接触れて、僕の中に響く何かが確かにあった。はじめはそれをもっと良くしてあげたくて、自分の持つ知識を伝えればいいと思っていた。
義務感に近いそれがいつの間にか、伝わって欲しいという願いに変わり、おまえが楽しそうに執筆してる姿を見て、どうしたらもっと笑ってくれるだろうかと考えることで、小さな幸せを探している自分に、ある日気がついてしまった。
僕の心の中に、奈美がいつの間にか住みついていた。だからこそおまえが告げた言葉が、ナイフのように深く突き刺さった。
あの写真の女の子は僕の妹だ。早くに両親を亡くして、ふたり暮らしをしていた。大学を卒業したあと新聞記者になった僕は、毎日を忙しく過ごしていて、病魔に冒されてる妹の体調にまったく気づいてやれなかった。
妹が目の前で倒れてはじめて、病気のことに気がついた。その時にはもう、手の施しようがないくらいに病気が進行してしまって、悔やんでも悔やみきれなかった。
ゴーストライターについても、この時のショックで書けなくなった僕に代わって迷惑をかけてしまった先輩へ、恩返しのつもりで書いていた。もう書きたくないという気持ちを奈美に見透かされて、すごく驚いた。どっちが教え子なんだろうな。
おまえが帰った後、もう一度しっかりと自分を見つめ直してみた。今の中途半端な僕を好きでい続けさせる自信が、どうしても見いだせなかった。だからどうしたらいいかなんて答えは、すぐに導き出された。
先輩と話し合って、きっちり決別してくる。そしてまた一から記者として、仕事を探してみる。何年かかるか分からないが、胸を張って奈美の前に絶対に現れる。
だからおまえは、物語を書いて待っていろ。それが僕らの繋がる唯一無二の縁になる。
さようならは言わない。
この言葉は左様ならば仕方ないという言葉からきているんだが、物悲しく感じてしまって使いたくない。
おまえにはやっぱり、またなって言っておく。 三木 靖伸 』
万年筆で書かれた三木先生の青い文字が、私の流す涙で滲んでいった。
物語を書いて待っていろなんて、随分と酷なことを平気で言ってくれるよね。
「書いた話を、誰がチェックしてくれるの? 恋物語なんて書いたら絶対に三木先生のこと思い出して、苦しくなるに決まってるのに……」
電話番号やメアドにアプリのIDすら書かれていない手紙――繋がるどころか、見えない赤い糸だよ。
胸にぎゅっと手紙と辞典を抱きしめて、抜けるような青空を見た。この空は東京まで繋がっているけど、三木先生の存在まで感じることはできない。なんとも表現しがたいその寂しさに、唇を噛みしめた。
またなって、いつまで待てばいいのかな。本当に最後まで中途半端で、いい加減な先生なんだから……。
なにもない、三木先生が住んでいたボロアパート。愛車のケロカーや先生の家に入るときにいつも目に留まった、かわいらしい手作りの郵便受けも、すべてがなくなっていた。
空っぽになった恋心を抱えて、泣きながら自宅に向かうしかできない自分。写真の女のコとの関係や持病のこと、東京のどこの病院に行ったのかすら教えてもらえないまま、忽然と消えてしまった三木先生。
『これが僕の気持ちだ、わかったか?』
そう言ってキスしてくれたけど、先生の口から直接、気持ちを聞いたワケじゃない。
私の好きと三木先生の好きは、種類が違っていたのかな。だからなにも言わずに、ゴミを捨てるように、私を置いて行ってしまったんだ。
マイナス思考で頭の中がいっぱいになる寸前で、自宅前に到着した。
(こんな早い時間にただいまなぁんて帰ったら、お母さんはきっとビックリするだろうな。学校に戻るのも、今更だし……)
なぁんてうだうだ考えながら玄関前に向かって歩いて行くと、郵便受けになにやら分厚くて大きな封筒が押し込まれていた。
「なんだろ、これ?」
恐るおそる引き抜いてみたら、封筒に安藤奈美様と見慣れた筆跡が青いペンで書かれていたことで、誰が差出人かすぐにわかってしまった。手に持っていたカバンを地面に放り投げて、封筒を手荒に破った。
中から出てきたのは、ボロボロに使い古された国語辞典だった。厚紙でできたカバーと辞典の間に、手紙のような物が挟まれていることに気がつく。辞典に挟まれてる手紙を慌てて引っ張り出し、辞典を小脇に抱えながら、ドキドキする胸を抑えつつ読んでみた。
『奈美へ
おまえが今、この手紙をどんな顔で読んでいるか。想像すると胸が痛くなるのは、何も告げないまま僕が東京に行ってしまったからだろう。
奈美に好きだと言われて、とても嬉しかった。はじめは僕のことをNHKなんてバカにしていたはずなのに、どうしてそんな感情を抱いたのか。性格同様におまえの感情は謎がとても多くて、相変わらず読めない。
出来損ないで中途半端な僕を好きになるなんて、正直なところ何かの罠かと思った。
だけど真っ赤な顔で、一生懸命に自分の気持ちをバカ正直に伝える姿を見て、己の心で感じた結果、教師としてはあるまじき行為をしてしまった。一時の感情からではなく、本当に奈美を心の奥底から愛おしいと思った。
おまえが心を込めて書いた作品に直接触れて、僕の中に響く何かが確かにあった。はじめはそれをもっと良くしてあげたくて、自分の持つ知識を伝えればいいと思っていた。
義務感に近いそれがいつの間にか、伝わって欲しいという願いに変わり、おまえが楽しそうに執筆してる姿を見て、どうしたらもっと笑ってくれるだろうかと考えることで、小さな幸せを探している自分に、ある日気がついてしまった。
僕の心の中に、奈美がいつの間にか住みついていた。だからこそおまえが告げた言葉が、ナイフのように深く突き刺さった。
あの写真の女の子は僕の妹だ。早くに両親を亡くして、ふたり暮らしをしていた。大学を卒業したあと新聞記者になった僕は、毎日を忙しく過ごしていて、病魔に冒されてる妹の体調にまったく気づいてやれなかった。
妹が目の前で倒れてはじめて、病気のことに気がついた。その時にはもう、手の施しようがないくらいに病気が進行してしまって、悔やんでも悔やみきれなかった。
ゴーストライターについても、この時のショックで書けなくなった僕に代わって迷惑をかけてしまった先輩へ、恩返しのつもりで書いていた。もう書きたくないという気持ちを奈美に見透かされて、すごく驚いた。どっちが教え子なんだろうな。
おまえが帰った後、もう一度しっかりと自分を見つめ直してみた。今の中途半端な僕を好きでい続けさせる自信が、どうしても見いだせなかった。だからどうしたらいいかなんて答えは、すぐに導き出された。
先輩と話し合って、きっちり決別してくる。そしてまた一から記者として、仕事を探してみる。何年かかるか分からないが、胸を張って奈美の前に絶対に現れる。
だからおまえは、物語を書いて待っていろ。それが僕らの繋がる唯一無二の縁になる。
さようならは言わない。
この言葉は左様ならば仕方ないという言葉からきているんだが、物悲しく感じてしまって使いたくない。
おまえにはやっぱり、またなって言っておく。 三木 靖伸 』
万年筆で書かれた三木先生の青い文字が、私の流す涙で滲んでいった。
物語を書いて待っていろなんて、随分と酷なことを平気で言ってくれるよね。
「書いた話を、誰がチェックしてくれるの? 恋物語なんて書いたら絶対に三木先生のこと思い出して、苦しくなるに決まってるのに……」
電話番号やメアドにアプリのIDすら書かれていない手紙――繋がるどころか、見えない赤い糸だよ。
胸にぎゅっと手紙と辞典を抱きしめて、抜けるような青空を見た。この空は東京まで繋がっているけど、三木先生の存在まで感じることはできない。なんとも表現しがたいその寂しさに、唇を噛みしめた。
またなって、いつまで待てばいいのかな。本当に最後まで中途半端で、いい加減な先生なんだから……。