先生と私の見えない赤い糸
***

 昼間の疲れが一気に体に圧し掛かり、欠伸をかみ殺しながら廊下を歩いていた。いつも閑古鳥の図書室の前を通ると、珍しく人がいるらしい姿が、ばっちり目に留まる。

(――僕の昼寝の場所を占拠してる、奇特な奴はいったい誰だ?)

 音を立てないように扉をゆっくり開けて中に忍び込むと、見慣れたシルエットについ笑ってしまった。机に置かれた国語辞典を目の当たりにして、さらに口角が上がる。

(――奈美の奴、きちんと言うことをきいているじゃないか)

 忍び足で背後に近づいて華奢な両肩にそっと手を置くと、かなりビックリした顔でバッと振り返った。驚きに満ち溢れたまなざしを見ながら、声をかけてやる。

「思ったより、進んでるじゃないか」

「いえ、全然……。そんなには進んでないですけど」

 奈美は素っ気無く答えて、ふたたびノートに視線を移す。言葉どおりなのを確認すべく、どれどれと思いながら、ノートを後ろから覗き込んでみた。

「んー? 僕が想像していたよりも、話が進んでるって。それに、随分と表現が良くなった。頑張ってるな偉いぞ、奈美」

 ちょっとだけ頬を赤くして俯く姿に、頭を撫でてやる。

 講義を始めた当初は、反発ばかりされた。圧倒的にボキャブラリー数が足りないくせに、同じ言葉ばかり使って、ここぞとばかりに僕に口撃していたのに、今じゃ素直に従ってくれている。

 スポンジに水が沁み込むように吸収していく奈美の様子が、僕の中で実はとても嬉しい事実だった。

 そういう経緯があり、奈美の印象が素直で照れ屋で可愛い奴という認識に現在変わっている。あまりにも可愛くてつい、意地悪してしまうのはしょうがない。こういうことをやるから、コイツに嫌われるんだと思いながら腕時計を見た。

「気をつけついでに、もうすぐ下校の時間だ。学校帰り、気をつけて帰るんだぞ」

「……家に帰りたくない、かも」

(どこか浮かない顔をしていると思ったら、家でなにかあったのか)

「まったく、ワガママお嬢様だな、奈美は。パーティがあるなら、いろいろと準備があるだろ。さっさと帰らなきゃダメじゃないか」

 僕は戻りかけた体の向きを強引に変え、机の上に置かれた辞典を手に取ると、奥の方にある棚に戻す。そして奈美が手に持っていたノートを素早く取り上げて、鞄の中に入れてやった。

「デモもストも、言語道断! さっさと立ち上がりなさい」

 公共交通機関がデモやストを起こしたら、本当に大変なんだ……って違うか。

 奈美は僕の言葉に渋々従い、ムスッとした顔のまま立ち上がる。

「奈美、そんなふうに可愛くない顔していると、パーティではモテないぞー」

 おまえは楽しそうにニコニコ、笑ってるのが可愛いんだから――。

 奈美の前髪を右手でどけて、オデコにちゅっとキスをしてやった。途端に茹でタコみたいに真っ赤になり、慌てふためく様子は、僕の笑いをここぞとばかりに誘う。

 初々しい感じがいい。何気にドキドキが、こっちにまで移ってしまいそうだった。

「うんうん。さっきの顔より、こっちの顔が僕の好みだよ。いつも笑ってろ、そのほうが似合ってる」

(困り果ててるその顔も、結構可愛い……って、僕はなにを考えてるんだ)

 しまったと思いながら、奈美を図書室から追い出すように無理やり廊下へと押し出して、身を翻すように職員室へ向かう。

 よくわからんが、奈美のテレが移ってしまったみたいだ。ちょっとだけ頬が熱い。
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