先生と私の見えない赤い糸
***
テーブルを挟み、改めて向かい合う形で座り直した。目の前にいる三木先生の頬には、私がつけたモミジが綺麗に浮かびあがっている。
「せっかく教育的指導をしてるときに、暴力はいけないと思うぞ」
唇を尖らせて文句を言う破廉恥極りない教師に、語気を強めて注意を促す。
「教育的指導を名目に抱きつくなんて行為は、絶対に認められません。あれは暴力じゃなく、れっきとした正当防衛です!」
じーっと睨みを利かせながら、コーヒーを一口飲んだ。
(押し倒したことを教育的指導と称するなんて、三木先生の頭の中がどうなってるのか、マジで未知すぎる!)
そんなことを考えながら呆れ返る私を余所に、三木先生は斜め上を見ながら口を開く。
「えーっと……夕日の中、なにかをするワケでもなく、ただ一人を見つめてる」
平手打ちされた頬を恨めしそうに撫でつつ、開いていた目をしっかり閉じて、どこか嬉しそうに口ずさんだ言葉に、唖然とするしかない。
「み、三木先生……」
「光が輝きを増すとき、波にさらわれた時間が、ただ色あせていく。だったか」
「ちょっと待って、どうしてそれを覚えてるの!?」
小説のイメージを詩にして冒頭部分に書いたものを、三木先生がすらすらと暗唱した。覚えられていることに驚きを隠せず、三木先生に指を差すのが精いっぱいだった。
「いやー、この冒頭の詩で、心をぎゅっと鷲掴みされてしまってな。つい覚えてしまったんだ。特にラストの……これから出逢う月と夜空のように 君と僕が出逢うように その夜空に星を散りばめ――」
「ややややめてっ! 朗読するなんて、私に死ねって言ってるようなもんなんだよっ」
両手でテーブルをバンバン叩きながら、激しく抗議してみせた。
「恥ずかしがることじゃねーって。きちんと褒めてるのに、おかしなヤツだな。もっと胸張って、堂々とすればいいのによ」
私が最も嫌っているしたり笑いを、三木先生が目の前でする。そのせいで自分の中で制御しているものが、ぷつんと音を立てて切れた。
「車の中でも言ったけど、これは誰かに見せるために書いたものじゃないんだってば! たとえるなら、着替え中を盗撮された感じに思えてならないんだよ」
ノートを手にして三木先生に抗議すると、メガネの奥の瞳をいつもより大きく見開いて、顎を撫でながら返答する。
「小説読んでて思ったんだけどさ、おまえの比喩って絶妙だよな。説得力ありすぎて、反論できねー。膝を叩いて頷くレベルだ」
怒りまくってる私を宥めるためなのか、不意に褒めちぎった。褒められ慣れない私は、思わず口をつぐんで黙り込む。
「安藤が書いた冒頭の詩も比喩も超絶なのに、これまで体験している物事に対する経験不足と、ここぞという場面で書かなきゃならない心情面が、圧倒的というか悲劇的に足りなくて、物語全体が薄っぺらいんだよ。おまえの言葉を借りるなら、淡い光――そうだな三日月の光くらいか」
「三日月の光?」
「ああ、夜空にぽっかり浮かぶ三日月。目には留まるけど、それでおしまい」
(――そうか、私の書いた物は三日月みたいなんだ)
「これからいろんなことを、自ら経験していって文章を書いていけば、満月の手前くらいまでは光が増すだろうな。他に文章力を上げるのに、なにかやってるのか?」
「限られた文字数で呟くアレだったり、ゲームしたり……」
「へえ。白い鳥がマークの、無料であれこれ気持ちを伝えるアレか。昔は十七文字で表現した人間を俳人と呼んだが、安藤は廃人の方なんだな。なにわざわざを呟いているのやら」
ムカつく! どうして人の神経に触ることばかり、三木先生は平気で言いまくれるのだろう。
「すみませんが、廃人レベルまでいってませんから。失礼なことばかり、言わないでくださいっ」
「そんじゃあ僕が、おまえを神レベルまで引き上げてやるって言ったら、どうする?」
(紙? 髪? 神? どれのことを指しているのか、まったくわからないんだけど)
ぽかんとした私に、三木先生は銀縁メガネのフレームを上げて、にんまりと微笑んだ。
「せっかくいいモノを持っているのに、そのままにしておくのが惜しいと思ってさ。僕の手で、三日月を満月まで光らせてやるって言ってんだよ」
告げられたことがどうにも信じられなくて、まじまじと三木先生の顔を見つめながら、疑問を訊ねてしまう。
「三木先生に、それができるっていうの? どんなに考えても、不安しかないんだけど……」
猜疑心溢れるまなざしをばしばし送ると、曇りがちなメガネのフレームを上げて、きりりと顔を引き締める。
「国語の教師をやる前は、新聞記者をしてたんだ。こう見えても一応、文章のプロだぞ僕は」
「プッ、全然似合わなーい。ガセっぽい」
笑撃的ともいえる事実に、思わず笑ってしまった。
「で、どうするよ。僕の手を取るのか?」
突き刺すような視線をいきなり向けられて、自然と体が緊張した。
自分の書いた文章が、今よりもいいものになる――三木先生の手を借りるのは正直すっごくイヤだけど、身近でいろいろ指導してもらえるのは、表現力を上げるチャンスかもしれないな。
「なにも知らない未熟者ですが、どうぞヨロシクお願いします!」
覚悟を決めた私はその場で姿勢を正し、きっちり頭を下げてお願いしてみた。
「普段からそうやって素直に接してくれたら、可愛げがあるのにな。よろしくやってやるよ。はい、握手!」
目の前に差し出された大きな右手を、恐るおそる右手で握る。
(やっぱ男の人の手って、大きいなぁ。現金掴み取りをやったら、たくさん取れそうだ)
「安藤、なんて顔してるんだ。僕の手を握って、もしかしてドキドキしちゃったとか?」
勘違いも甚だしい。誰が三木先生相手に、ドキドキなんてするもんか。
「すみません。三木先生ごときに、ドキドキしません」
きっぱりと言いきった私に、三木先生はテーブルの上でコケたふりをした。
「おまえな……。これから恋愛小説を書いていくんだろ? ドキドキとかキュンキュンは、間違いなく大事な要素だぞ」
「三木先生相手に、ドキドキやキュンキュンは絶対に無理です」
含み笑いしながら言うと、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「可愛い顔して、言うこと酷いよな。友達にも、そんな態度なのか?」
「そんなこと言わない。三木先生の顔を見てると、思ったことがつい口に出ちゃって」
「じゃあ、さっき言ってたNHKってなんだ? ナチュラルでハイスペックにカッコイイの略か?」
「ぶぶっ!!」
三木先生ってば、どうしてこんなにポジティブでいられるんだろう。自分の顔を、ちゃんと鏡で見ていないんだろうな。あ、メガネをかけないで見てるのかもしれない。
「涙を流して笑うほど、僕が可笑しなことを言ったか? 何の略か、教えろよ」
「……なんか、本格的にキモいの略です」
渋々教えるとなぜか顎に手を当てて、ううーんと唸る。
「語呂合わせにしちゃ、ちょっと曖昧だよな。いっそのこと、なまらにしてみたらどうだ?」
「なまら? なにそれ」
「元は新潟弁なんだが、それが北海道に渡って来たらしい。すごいとか、とてもっていう意味だ。ちなみに強調系は、なんまら。どうだ、しっくりくるだろ」
ちょっと待って。三木先生ってば本格的にキモいことを、自ら強調しちゃってるよ。
「方言はなー、奥が深いんだぞ。調べていくと、発祥の地があってだな――」
しかも自分で自虐してるのを、まったく気がついてない! 授業同様、抜けすぎてるでしょ。
私はどうにも堪らなくなって、両手でテーブルを叩きながら、肩を揺すってさらに大笑いしてしまった。
「あー? なにが可笑しい? 変なこと言ったか」
「いや、なんでもない。三木先生って黙っていても、面白い顔してるなって」
「おまえなー、明らかに僕をバカにしてるだろ。さっきから、コロコロと態度を豹変させて。ちょっと、さっきのノート貸してみろ」
差し出した手に、ノートを渡した。ぱらりと表紙をめくり、そこに書いてあるタイトルと私の名前を、顎を引きながらじっと眺める。
「ペンネームは、奈美っていう本名でいくのか」
「改めて名前考えるの、面倒くさいから」
「じゃあ、こんなのはどうだ?」
背広の胸ポケットに差していた万年筆を取り出し、空いてるスペースに綺麗な文字で名前を書いてくれた。
「虹美、こうみ?」
「いや、ななみって呼ぶ。コロコロと態度が七変化する安藤に、まさしくピッタリだろ。それとも、こっちの方がいいか」
今度は七七七と書き込んだ。それを覗き込む私の顔を見ながら、意地の悪い微笑みを口元に浮かべる。
「ちょっとなにこれ、七が三つでななみって呼ぶ気でしょ。ギャンブラーみたいな名前、勝手につけないでよ」
「じゃあ、名字をつけてやる。カメレオン奈美、すっごく格好いいだろ」
「三木先生、ワザと私を怒らせて楽しんでるでしょ!」
「おまえが僕の顔を見て、ずっと笑うからだろ。先生に向かって失礼すぎるんだ、崇め奉れ!」
ノートを閉じて、ぱしっと私の頭を叩く。
「安藤がペンネーム考えるのが面倒くさいって言ったから、わざわざ考えてやったのに、文句しか言わねーもんな。ムカついたから、今日はここまで」
「ええーっ、その中に書かれてる赤と青の枠の意味、どうしても知りたいんだけど」
「その意味を知る前に、今から渡す本、読んでおけ。ノートはもう一度読み直したいから、預からせてもらう」
そう言ってノートを小脇に抱えながら本棚の前に立った、三木先生の横に並んでみる。
私より頭一個分と少しだけ背の高い三木先生は、真剣に本の背表紙を視線で追っていきながら、迷うことなく何冊か抜き取っていった。
セレクトされた物は全然知らないタイトルばかりで、その難しそうな感じにこっそり辟易しながら、簡単に読めそうなものがないかなぁとその場に屈み、整然と並べられた本棚をじーっと覗きみる。
その中で一冊だけ、なぜか逆さまに立て掛けられている本を発見した。他の本はちゃんと並べられているのに、どうしてだろうと思って手に取ってみる。
「なんだ、おまえ。そんな本が読みたくなったのか?」
「え? あ、うん。急に読みたくなっちゃった」
「しかしなぜ『古事記』なんだ。相変わらず考えてること、さっぱりわからねーな」
三木先生は肩をすくめると、私の両手にセレクトした分厚い本を、ドサッと6冊も渡した。
「急いで読まなくていい。じっくり読んでみろ。頭で考えるんじゃなく、心の目で読むんだ」
「心の目?」
告げられた言葉の意味がわからず、小首を傾げてしまった。
「おまえは頭の中で、人を好きになるか? 大好きな彼を見つけました。その瞬間、胸がドキドキって感じるだろ。頭がドキドキしたら、間違いなく血管がブチ切れてる状態だろうな」
「三木先生の比喩、いろんな意味で絶妙ですね、ははは……」
苦笑いすると、バカにするなという顔をしながら、ぎろりと睨みを利かせる。
「本の文字もそうだが、目にする文字すべてを、心の目で捉えろ。どうしてこのポスターはこういうキャッチフレーズなんだろうとか、三面記事の見出しとか、いろいろ心に響くものが結構あるもんだぞ」
「そんなものにいちいち反応していたら、すっごく疲れちゃいそう」
うんざり気味で言うと、そんなことないよと柔らかく笑って、私の頭を撫でる。
「感受性豊かな年頃だからこそ、いろんなものに対して感じてほしいんだ。そうして文章に真正面から向き合ってくれると、こっちとしても教え甲斐があるってことさ。さてと送ってやるから、帰り支度をしろ。忘れ物をするなよー」
せかされるように指示されたので、慌ててカバンに本を詰め込んだ。
(――うわっ、かなり重い)
両手でよいしょと持ち上げた瞬間、さっと横から奪われてしまった。
「家の前まで、持って行ってやる。重たくさせたのは、僕の責任だからな」
「ありがとぅ……ございます。三木先生」
普段は見ることのないスマートな態度に、どんな顔していいかわからず、たどたどしくお礼を言うしかできなかった。
やっぱ男の人なんだな、ちょっとだけ嬉しいかも。なんてこっそり考えていると。
「どーいたしまして、カメレオン奈美」
したり笑いをして告げられたセリフに、眉根をしかめて不快感を露わにしてやった。やっぱり嫌なヤツだよNHK!
前を行く三木先生の背中を無言で思いっきり叩いて、気分を晴らしたのだった。
テーブルを挟み、改めて向かい合う形で座り直した。目の前にいる三木先生の頬には、私がつけたモミジが綺麗に浮かびあがっている。
「せっかく教育的指導をしてるときに、暴力はいけないと思うぞ」
唇を尖らせて文句を言う破廉恥極りない教師に、語気を強めて注意を促す。
「教育的指導を名目に抱きつくなんて行為は、絶対に認められません。あれは暴力じゃなく、れっきとした正当防衛です!」
じーっと睨みを利かせながら、コーヒーを一口飲んだ。
(押し倒したことを教育的指導と称するなんて、三木先生の頭の中がどうなってるのか、マジで未知すぎる!)
そんなことを考えながら呆れ返る私を余所に、三木先生は斜め上を見ながら口を開く。
「えーっと……夕日の中、なにかをするワケでもなく、ただ一人を見つめてる」
平手打ちされた頬を恨めしそうに撫でつつ、開いていた目をしっかり閉じて、どこか嬉しそうに口ずさんだ言葉に、唖然とするしかない。
「み、三木先生……」
「光が輝きを増すとき、波にさらわれた時間が、ただ色あせていく。だったか」
「ちょっと待って、どうしてそれを覚えてるの!?」
小説のイメージを詩にして冒頭部分に書いたものを、三木先生がすらすらと暗唱した。覚えられていることに驚きを隠せず、三木先生に指を差すのが精いっぱいだった。
「いやー、この冒頭の詩で、心をぎゅっと鷲掴みされてしまってな。つい覚えてしまったんだ。特にラストの……これから出逢う月と夜空のように 君と僕が出逢うように その夜空に星を散りばめ――」
「ややややめてっ! 朗読するなんて、私に死ねって言ってるようなもんなんだよっ」
両手でテーブルをバンバン叩きながら、激しく抗議してみせた。
「恥ずかしがることじゃねーって。きちんと褒めてるのに、おかしなヤツだな。もっと胸張って、堂々とすればいいのによ」
私が最も嫌っているしたり笑いを、三木先生が目の前でする。そのせいで自分の中で制御しているものが、ぷつんと音を立てて切れた。
「車の中でも言ったけど、これは誰かに見せるために書いたものじゃないんだってば! たとえるなら、着替え中を盗撮された感じに思えてならないんだよ」
ノートを手にして三木先生に抗議すると、メガネの奥の瞳をいつもより大きく見開いて、顎を撫でながら返答する。
「小説読んでて思ったんだけどさ、おまえの比喩って絶妙だよな。説得力ありすぎて、反論できねー。膝を叩いて頷くレベルだ」
怒りまくってる私を宥めるためなのか、不意に褒めちぎった。褒められ慣れない私は、思わず口をつぐんで黙り込む。
「安藤が書いた冒頭の詩も比喩も超絶なのに、これまで体験している物事に対する経験不足と、ここぞという場面で書かなきゃならない心情面が、圧倒的というか悲劇的に足りなくて、物語全体が薄っぺらいんだよ。おまえの言葉を借りるなら、淡い光――そうだな三日月の光くらいか」
「三日月の光?」
「ああ、夜空にぽっかり浮かぶ三日月。目には留まるけど、それでおしまい」
(――そうか、私の書いた物は三日月みたいなんだ)
「これからいろんなことを、自ら経験していって文章を書いていけば、満月の手前くらいまでは光が増すだろうな。他に文章力を上げるのに、なにかやってるのか?」
「限られた文字数で呟くアレだったり、ゲームしたり……」
「へえ。白い鳥がマークの、無料であれこれ気持ちを伝えるアレか。昔は十七文字で表現した人間を俳人と呼んだが、安藤は廃人の方なんだな。なにわざわざを呟いているのやら」
ムカつく! どうして人の神経に触ることばかり、三木先生は平気で言いまくれるのだろう。
「すみませんが、廃人レベルまでいってませんから。失礼なことばかり、言わないでくださいっ」
「そんじゃあ僕が、おまえを神レベルまで引き上げてやるって言ったら、どうする?」
(紙? 髪? 神? どれのことを指しているのか、まったくわからないんだけど)
ぽかんとした私に、三木先生は銀縁メガネのフレームを上げて、にんまりと微笑んだ。
「せっかくいいモノを持っているのに、そのままにしておくのが惜しいと思ってさ。僕の手で、三日月を満月まで光らせてやるって言ってんだよ」
告げられたことがどうにも信じられなくて、まじまじと三木先生の顔を見つめながら、疑問を訊ねてしまう。
「三木先生に、それができるっていうの? どんなに考えても、不安しかないんだけど……」
猜疑心溢れるまなざしをばしばし送ると、曇りがちなメガネのフレームを上げて、きりりと顔を引き締める。
「国語の教師をやる前は、新聞記者をしてたんだ。こう見えても一応、文章のプロだぞ僕は」
「プッ、全然似合わなーい。ガセっぽい」
笑撃的ともいえる事実に、思わず笑ってしまった。
「で、どうするよ。僕の手を取るのか?」
突き刺すような視線をいきなり向けられて、自然と体が緊張した。
自分の書いた文章が、今よりもいいものになる――三木先生の手を借りるのは正直すっごくイヤだけど、身近でいろいろ指導してもらえるのは、表現力を上げるチャンスかもしれないな。
「なにも知らない未熟者ですが、どうぞヨロシクお願いします!」
覚悟を決めた私はその場で姿勢を正し、きっちり頭を下げてお願いしてみた。
「普段からそうやって素直に接してくれたら、可愛げがあるのにな。よろしくやってやるよ。はい、握手!」
目の前に差し出された大きな右手を、恐るおそる右手で握る。
(やっぱ男の人の手って、大きいなぁ。現金掴み取りをやったら、たくさん取れそうだ)
「安藤、なんて顔してるんだ。僕の手を握って、もしかしてドキドキしちゃったとか?」
勘違いも甚だしい。誰が三木先生相手に、ドキドキなんてするもんか。
「すみません。三木先生ごときに、ドキドキしません」
きっぱりと言いきった私に、三木先生はテーブルの上でコケたふりをした。
「おまえな……。これから恋愛小説を書いていくんだろ? ドキドキとかキュンキュンは、間違いなく大事な要素だぞ」
「三木先生相手に、ドキドキやキュンキュンは絶対に無理です」
含み笑いしながら言うと、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「可愛い顔して、言うこと酷いよな。友達にも、そんな態度なのか?」
「そんなこと言わない。三木先生の顔を見てると、思ったことがつい口に出ちゃって」
「じゃあ、さっき言ってたNHKってなんだ? ナチュラルでハイスペックにカッコイイの略か?」
「ぶぶっ!!」
三木先生ってば、どうしてこんなにポジティブでいられるんだろう。自分の顔を、ちゃんと鏡で見ていないんだろうな。あ、メガネをかけないで見てるのかもしれない。
「涙を流して笑うほど、僕が可笑しなことを言ったか? 何の略か、教えろよ」
「……なんか、本格的にキモいの略です」
渋々教えるとなぜか顎に手を当てて、ううーんと唸る。
「語呂合わせにしちゃ、ちょっと曖昧だよな。いっそのこと、なまらにしてみたらどうだ?」
「なまら? なにそれ」
「元は新潟弁なんだが、それが北海道に渡って来たらしい。すごいとか、とてもっていう意味だ。ちなみに強調系は、なんまら。どうだ、しっくりくるだろ」
ちょっと待って。三木先生ってば本格的にキモいことを、自ら強調しちゃってるよ。
「方言はなー、奥が深いんだぞ。調べていくと、発祥の地があってだな――」
しかも自分で自虐してるのを、まったく気がついてない! 授業同様、抜けすぎてるでしょ。
私はどうにも堪らなくなって、両手でテーブルを叩きながら、肩を揺すってさらに大笑いしてしまった。
「あー? なにが可笑しい? 変なこと言ったか」
「いや、なんでもない。三木先生って黙っていても、面白い顔してるなって」
「おまえなー、明らかに僕をバカにしてるだろ。さっきから、コロコロと態度を豹変させて。ちょっと、さっきのノート貸してみろ」
差し出した手に、ノートを渡した。ぱらりと表紙をめくり、そこに書いてあるタイトルと私の名前を、顎を引きながらじっと眺める。
「ペンネームは、奈美っていう本名でいくのか」
「改めて名前考えるの、面倒くさいから」
「じゃあ、こんなのはどうだ?」
背広の胸ポケットに差していた万年筆を取り出し、空いてるスペースに綺麗な文字で名前を書いてくれた。
「虹美、こうみ?」
「いや、ななみって呼ぶ。コロコロと態度が七変化する安藤に、まさしくピッタリだろ。それとも、こっちの方がいいか」
今度は七七七と書き込んだ。それを覗き込む私の顔を見ながら、意地の悪い微笑みを口元に浮かべる。
「ちょっとなにこれ、七が三つでななみって呼ぶ気でしょ。ギャンブラーみたいな名前、勝手につけないでよ」
「じゃあ、名字をつけてやる。カメレオン奈美、すっごく格好いいだろ」
「三木先生、ワザと私を怒らせて楽しんでるでしょ!」
「おまえが僕の顔を見て、ずっと笑うからだろ。先生に向かって失礼すぎるんだ、崇め奉れ!」
ノートを閉じて、ぱしっと私の頭を叩く。
「安藤がペンネーム考えるのが面倒くさいって言ったから、わざわざ考えてやったのに、文句しか言わねーもんな。ムカついたから、今日はここまで」
「ええーっ、その中に書かれてる赤と青の枠の意味、どうしても知りたいんだけど」
「その意味を知る前に、今から渡す本、読んでおけ。ノートはもう一度読み直したいから、預からせてもらう」
そう言ってノートを小脇に抱えながら本棚の前に立った、三木先生の横に並んでみる。
私より頭一個分と少しだけ背の高い三木先生は、真剣に本の背表紙を視線で追っていきながら、迷うことなく何冊か抜き取っていった。
セレクトされた物は全然知らないタイトルばかりで、その難しそうな感じにこっそり辟易しながら、簡単に読めそうなものがないかなぁとその場に屈み、整然と並べられた本棚をじーっと覗きみる。
その中で一冊だけ、なぜか逆さまに立て掛けられている本を発見した。他の本はちゃんと並べられているのに、どうしてだろうと思って手に取ってみる。
「なんだ、おまえ。そんな本が読みたくなったのか?」
「え? あ、うん。急に読みたくなっちゃった」
「しかしなぜ『古事記』なんだ。相変わらず考えてること、さっぱりわからねーな」
三木先生は肩をすくめると、私の両手にセレクトした分厚い本を、ドサッと6冊も渡した。
「急いで読まなくていい。じっくり読んでみろ。頭で考えるんじゃなく、心の目で読むんだ」
「心の目?」
告げられた言葉の意味がわからず、小首を傾げてしまった。
「おまえは頭の中で、人を好きになるか? 大好きな彼を見つけました。その瞬間、胸がドキドキって感じるだろ。頭がドキドキしたら、間違いなく血管がブチ切れてる状態だろうな」
「三木先生の比喩、いろんな意味で絶妙ですね、ははは……」
苦笑いすると、バカにするなという顔をしながら、ぎろりと睨みを利かせる。
「本の文字もそうだが、目にする文字すべてを、心の目で捉えろ。どうしてこのポスターはこういうキャッチフレーズなんだろうとか、三面記事の見出しとか、いろいろ心に響くものが結構あるもんだぞ」
「そんなものにいちいち反応していたら、すっごく疲れちゃいそう」
うんざり気味で言うと、そんなことないよと柔らかく笑って、私の頭を撫でる。
「感受性豊かな年頃だからこそ、いろんなものに対して感じてほしいんだ。そうして文章に真正面から向き合ってくれると、こっちとしても教え甲斐があるってことさ。さてと送ってやるから、帰り支度をしろ。忘れ物をするなよー」
せかされるように指示されたので、慌ててカバンに本を詰め込んだ。
(――うわっ、かなり重い)
両手でよいしょと持ち上げた瞬間、さっと横から奪われてしまった。
「家の前まで、持って行ってやる。重たくさせたのは、僕の責任だからな」
「ありがとぅ……ございます。三木先生」
普段は見ることのないスマートな態度に、どんな顔していいかわからず、たどたどしくお礼を言うしかできなかった。
やっぱ男の人なんだな、ちょっとだけ嬉しいかも。なんてこっそり考えていると。
「どーいたしまして、カメレオン奈美」
したり笑いをして告げられたセリフに、眉根をしかめて不快感を露わにしてやった。やっぱり嫌なヤツだよNHK!
前を行く三木先生の背中を無言で思いっきり叩いて、気分を晴らしたのだった。