先生と私の見えない赤い糸
***

 いつもより足早に帰宅し、三木先生から借りて読み終えた本をカバンに入れてから、自宅を出発する。その中には当然、写真が挟まっていた『古事記』も含まれていた。

 写真についてツッコミを入れるべきかを考えている最中に、ボロアパートに到着。呼び鈴を押そうと右手を伸ばした瞬間、音もなく突然扉が開いた。

「わっ……!!」

 ビックリして声が出せずにいる私に、してやったりな顔をする三木先生。

「なんて顔してるんだ、面白すぎるぞおまえ」

「いや、だって、いきなり扉が開いたら、誰だってビックリするでしょうよ!」

「いやいや、安藤のその顔のほうがビックリもんだぞ。玄関で見張ってて良かったー。早く中に入れ」

(――玄関で見張ってて良かったって、わざわざ扉の前に張り付いていたの!?)

 予想のつかない三木先生の行動に困惑しつつ、お邪魔しますと小さな声で挨拶してから、この間と同じように中に入った。

「……あの、お借りした本、本棚に戻しておきますか?」

「おー、そうしてもらえると助かる。作者順に並んでるから、よろしくなー」

 三木先生は笑いながら台所に立つと、ヤカンを火にかけた。

 どことなくウキウキしている感じの後ろ姿を確認後、下の段にあった『古事記』を、この間と同じように逆さまに差し込む。

(こうやって置いてあったんだから、なにか意味があるのかもしれないな――)

 そんな複雑な心境を抱えつつ、残りの本を戻そうと背表紙を見て、何とか作者を探した。一冊は自分の目の高さのところだったので、難なく戻せたのだけれど、あと一冊が背伸びをして、入るか入らないかの微妙な高さだった。

 自分で戻すと言ったんだから、絶対にやり遂げるもんねという気持ちで、踵を目一杯にあげながら本棚に片手をつき、うんと背伸びをして、高い棚に本を持つ手を一生懸命に伸ばした。その瞬間――。

「あぶねーな、なにをやってんだ」

 いつの間にか三木先生が背後にいて、手に持っていた本をひょいと奪う。そして入れたい位置にさくっと戻し、私の頭を撫でてくれた。

「戻してくれてありがとな、助かったよー」

 そう言って何事もなかったように、台所に戻って行く。ありがとうを言わなきゃならないのは自分なのに、先に言われてしまった。

 お礼を言うタイミングをすっかり失い、どうしていいかわからず、おずおずとテーブルの前に座るしかない。目の前にはノートパソコンと、私の創作ノートが置いてあった。

 これから始まる指導にそわそわしていると、独特なコーヒーの匂いが鼻に香ってきた。思わずコーヒーの香りを嗅いでしまう。

「三木先生この香りって、この前飲んだコーヒー?」

「ああ、飲むだろ? 砂糖は、この間の甘さで大丈夫か?」 

「はい、ありがとうございます!」

 三木先生が淹れた美味しいコーヒーがまた飲めるとわかったら、元気よく答えてしまった。

 数分後、自分の前に、真っ白いマグカップに注がれたコーヒーが置かれる。美味しそうなその香りに思わず顔を寄せると、三木先生が肩を震わせながら、クスクス笑い出した。

「余程気に入ったんだな。待ってる最中も、早く寄越せって顔していたし」

「だって、コーヒーがこんなに美味しいって思わなかったから。さっそく戴きます……」

 見つめられるのがなんだか恥ずかしくなり、慌ててマグカップを手にして、コーヒーをすすった。鼻に抜けるバニラの香りと、ほんのり甘いコーヒーが落ち着かない気持ちを瞬く間に癒していく。

 そんな私を見ながら三木先生も同じように、コーヒーを一口飲んだ。

「安藤がノートに書いた小説、どうしてあれを書こうと思ったんだ? おちゃらけた普段の姿との違いに、ちょっと驚いたぞ」

「あー、うん……」

 唐突に訊ねられたせいで返答に困り、思わず俯いてしまった。

 ――時代は明治時代中期くらいの設定――下町の和菓子問屋の若旦那、正治(せいじ)が主人公。

 ある日お店で失敗して父親に叱られた正治は、落ち込んだ気持ちを癒すべく、近くの海に赴いた。寄せては返す波に、沈んだ気持ちを打ち明けながら砂浜を歩いていると、キレイな女の人が、涙を流しながら佇んでいるのが目に留まる。

 長くて綺麗な黒髪を頭のてっぺんで結び、男が着るような雰囲気の着物を身につけていたけど、そんな地味な感じを消し去るような、目鼻立ちのはっきりとした女の人だった。

 正治の存在に気づくと慌てて涙を拭い、いきなり胸倉を掴んでくる。そして――。

『おまえ、なに勝手に見てんだよ、金出しな!』

 いきなり凄んできた彼女の豹変に驚きつつ、懐にある財布を探す正治。しかし、あるはずの財布が見当たらなかった。

 そのマヌケぶりに思わず笑う女は、ハナと名乗った。このあたり一帯の海賊をしていると言い放ち、年下の正治を面白おかしくからかった。事あるごとにボケをかまして困り果てる正治の笑顔が、失恋で傷ついたハナの心を癒していく。

 浜辺で逢うたびに、他愛のない言葉を交わしていくと同時に、恋仲になったふたり。ときにはハナの許婚が絡んできたり、ハナの元恋人が現れて波乱万丈な出来事があったけど、ふたりは手を取り合い、一緒になってそれらを乗り越えていった。

 しかし正治の父が現れ、息子の将来を思うなら身を引いてくれと土下座しながら頼まれて、ハナは泣く泣く別れを告げた。そんなハナの気持ちを知らず、ヤケになって夜の街に消えた正治。遊郭での豪遊やいろんなことで手持ちの金を使い果たし、ボロボロの状態で店に戻って来た。

 そんな正治に密かに片想いしていたお手伝いである桜が、今までの経緯を伝え、幸せになってほしいと頼みこむ。真実を知った正治は、家を捨てることを決意。父と決別し家を出て、ハナの元に向かった。

 ちょうど許嫁との結納前日で、遅くまで起きていたハナを正治は躊躇なく押し倒し、家を捨ててきたことを話す。

『俺と一緒に新しいところで、新しい未来を一緒に築いていこう! ハナさんじゃなきゃダメなんだ!』

 その言葉に胸を打たれ、ハナは駆け落ちを決意する。正治と夜を共にし、明け方出発することにした。

 お互い手と手を取り合って、小船に乗り込んで出航したところに、突然巨大な竜巻に巻き込まれ、空高く舞い上がってしまう。その際に正治の背中に大きな枝が突き刺さるが、ハナを守るため必死に食い止めた。

 そしてどこかの陸地に投げ出され、気を失うふたり。夢の中で正治はハナに向かって、自分が死んだことを告げる。それは永遠の別れを意味し、そんなのは嫌だと泣き喚くハナに、正治は切りしようと提案する。

『あの世で交わした約束は、破ることができないよ。きっと巡り逢えるから、それまで元気で。君はひとりじゃないんだからね』

 そう言って、ふたりは別れたのだった。

 ――数年後。ハナの元許婚、霧賀(きりが)が、ハナが勤める茶店に顔を出す。ハナの父親が病で亡くなったことを伝えるために、あちこち捜し歩いていた。

 店先で遊んでいた小さな男の子を見て、正治の子どもだと直感した霧賀は、ハナに幸せなのかと問いかける。ハナはその問いかけには答えず、霧賀と一緒に海の見える丘に向かった。その高台に、政治のお墓があった。

 すべてを悟った霧賀はハナを支えると告白するが、首を横に振って正治の子ども正臣(まさおみ)を、ぎゅっと抱きしめる。

『私はこのコがいれば、生きていけるから大丈夫。それに正治と約束しているから、誰とも付き合う気がないの』

 凛とした眼差しで言うハナを切なげに見てから、霧賀は頑張れよと声をかけて、その場をあとにした。ハナと正臣のふたりを包むように、海風が吹いていったのだった。

 そんな話を、私は筆が赴くままに書いた。

(――やっぱ、似合わないよね)

「なー、どうしてラストで、主人公の正治を殺してしまったんだ。普通なら新天地でふたり仲良く、幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたしの、ハッピーエンドにするだろー」

「そうだよね、普通……」

 最初はその設定で書こうと思っていた。

「安藤おまえ、誰か大事な人を亡くしたことがあるとか?」

 聞きにくそうに小さな問いかけで訊ねてきた三木先生を見ながら、ふるふると首を横に振った。

「私の大事な人はみんな、ぴんぴんしてますよ。そうじゃなく……。現実は、そんなに甘くないから。みんながみんな、ハッピーエンドになれるワケじゃないでしょう」

「確かにそうだが、なんだか寂しいな。小説の中くらい現実を忘れて、楽しんでしまえばいいものを」

(――そうだね。現実を忘れるために小説を書いていたハズなのに、どこかでひょっこりと、リアルが顔を出してしまう)

「奈美が現実で、苦しんでいるもの……。年頃の女の子なんだから、やっぱ親父さんのことか?」

「どうして、そう思うの?」

「んー、この小説に出てくる正治も、親父さんと上手くいってないから。それに今日鹿島と話し合いをしたときに家の話題が出た瞬間、すっごく怒っていただろ。今だって、すごーく怖い顔してる」

 図星かと言いながら美味しそうにコーヒーを飲む、三木先生に呆れてしまった。なぜだかこの人の前では、どんどん自分が丸裸にされていく感じがする。

 私も同じようにコーヒーに口をつけ、ぼやくように本音を言ってみる。

「まぁ、ウチにはウチの事情があるんだって。子どもの友達付き合いに、利害関係なんてないのにさ。父親がわざわざ会社関係の子どものリストにチェックして、私の部屋に持ってきたのね。それって、すっごくムカつくでしょ、私は父親の駒じゃないって」

 最後は怒りながら文句を言ったのに、三木先生はなぜか可笑しそうに瞳を細めて笑う。

「おまえのことだ。腹が立ってリストを捨てただろうけど結局、親父さんの言うことをしっかり聞いてるじゃないか」

「ご指摘どおり、リストは直ぐに破り捨てたよ。だから誰にチェックがついてるか、全然覚えてないもん。言うことなんて全然聞いてないよ」

 小首を傾げる私の頭を、無造作に撫でる。頭がぐらぐら動くような撫で方をされるせいで、間違いなく髪型はぐちゃぐちゃになっているだろう。

「わかってないっていうのが、さらにポイント高いのなー。あのさ女の子ってどうしても派閥みたいなのを作って、かたまる傾向にあるだろ。奈美の場合はそんなの無視して、いろんな友達を作ってる。あれだけたくさんの友達を作れば、チェックされたヤツとも仲良くしてる可能性があるだろう? 結果的には親父さんの言うこと、聞いちゃってるワケなんだよー」

 理路整然とした三木先生の言葉に、内心ショックを受けてしまった。指摘されるまでまったく気づかなかったけど、結局そういうことになる。

「なんて顔してんだ、そんなに親父さんに嫌がらせしたいのか?」

「嫌がらせって、そんなんじゃなく……」

 ただ親のいうことを、このままきいていたくないだけ。自分のやりたいように、生きていたいだけなのにな。

「だったらさ卒業したら、僕のところへお嫁さんにくるといい。これって、すごい嫌がらせだろ?」

「は――?」

 奇抜すぎる提案のせいで呆気に取られつつ、頬が自然と赤くなってしまった。

(この私が、三木先生のお嫁さん!?)

 ――お嫁さん……。そのフレーズが、エンドレスで頭の中に流れていく。

「でもなー未成年って確か、親の承諾が必要だったような。幼な妻、ゲットならず?」

 三木先生は残念そうな表情をし、テーブルに両手で頬杖をついて、こっちを見た。

 告げられたのセリフで、お嫁さんのフレーズが見事にかき消えたけれど。

「三木先生、幼な妻っていったい……?」

「あーあ。大学の同期に自慢できると思ったのに、すっごく残念だなぁ」

(私のためじゃなく、自分の自慢のためだったの? 一瞬だけでもドキドキしたのが、すっごく恥ずかしいじゃないっ!)

 テーブルに置かれた創作ノートを手に取り、両手でむんずと掴んでから三木先生の頭に目がけて、思いきり振り下ろした。こんな攻撃なんて、全然響かないだろうけど。

「もう奈美ってば、猛烈に照れちゃって可愛いなぁ」

「そうじゃなく!! 三木先生に対して、猛烈に腹が立ったんだってば」

「反抗するためのいいアイディアを提供したのに、酷いヤツだな」

 三木先生は唇を尖らせながらおもむろに立ち上がると、ダッシュボードに置いてあるタバコに手を伸ばしながら振り返る。

「ちょっと外にタバコ吸いに行ってくる。戻ってくるまでにノートに書いた僕の文章、きちんと読んでおけよな」

「わざわざ寒空の中で吸わなくても、ここで吸えばいいじゃん」

 言いながらベランダに向かった背中に、思わず口を開いてしまった。

「んー? 大事な本にタバコのニオイ、つけたくないんだよ。それに、可愛い生徒もいるワケだしな」

 ニヤッと笑いながら、ベランダに消えた三木先生。ベランダの戸を開けたとき、すーっと冷たい空気が部屋に入ってきたせいで、身震いしてしまった。

 本と一緒に大事にされたのは嬉しいけどこの寒い中、よくタバコを吸いに行けるなと違うところに感心した。

「尊敬していいんだか、本当に微妙な人だよ」

 ぽつりと呟きテーブルに向き直ったら、向かい側に置かれたノートパソコンが目に留まる。

(三木先生、なんの仕事してたんだろ? もしかして、テスト問題を作っていたりして……)

 ベランダでタバコを吸ってる姿をもう一度しっかり確認してから、素早くパソコンの前に回りこみ、中身を読んでみる。

「え――?」

 てっきり授業で使うモノを書いてると思っていたから、画面に表示された内容に思いっきりビックリした。

『中国でのビジネスは既に潮時! これからの日系企業の行方とは――』

 このタイトルから始まって、現在おこなわれている中国国内のビジネスを詳しく書きながら、高校生の私でも理解できる日系企業のビジネス戦略が、てんこもりに書かれていた。

「こういうのって、公民の分野じゃないのかな。何気にすごく面白い……」

 ちょっとだけ覗くつもりが、読み進めれば進めるほど目が離せなくなってしまった。気がついたら前のめりになり、真剣に読んでしまうくらいに。それなのに引き込まれて読んでいたパソコンの画面が、音もなく一気に閉じられる。

「コラッ! 人のパソコン、勝手に見るなよ」

 言いながら、私の頭にゲンコツを落とした三木先生。頭の痛みもなんのその、立ち上がって両手に拳を作り、抑えきれない興奮を言葉にしてやる。

「三木先生、すっごく面白い。世界経済とか今までそんなの全然興味がなかったけど、コレ読んだらもっと勉強したくなったよ。国語の先生が公民の分野をこんなふうに書くなんて、いろいろ調べなきゃできないことだよね?」

「おー、まぁな……」

「やっぱり! 書いてある文章もすっごい読みやすいだけじゃなく、わかりやすいから自然と引き込まれちゃった。尊敬しちゃったよ、三木先生。すごいすごい! さすがは、元新聞記者だけのことはあるね」

「安藤の感想って、すごいしか言葉が出ないのか。ボキャブラリー足らなすぎだろ」

 ガッガリしたセリフを言いつつも、三木先生は目元を赤らめさせ、明らかに照れた様子だった。

「えっと、なんかすご過ぎて言葉にできなくて……」

 普段見ることのない三木先生の顔に、私までどぎまぎしてしまう。目が合うなり、なぜか照れがうつってしまって、頬が急速に赤くなり、熱をもっていく。

「人のことより、自分のことをちゃんとしなさい。まったく、困った生徒だな」

 三木先生は私の肩を掴んで回れ右をさせ、座ってた位置に誘導して強引に座らせた。私の肩を掴む手が、異様に熱く感じる。

(――三木先生ってば、まだ照れているのかな?)

 すぐ傍にいる三木先生を仰ぎ見ようと、頭を上げたら。

「いちいち、こっちを見なくていいから。気にしなきゃならないのは、奈美が書いた小説だけだぞ。ちゃんと集中しろー」

 私の頭を鷲掴みし、無理やりテーブルの方に向けさせようとする。

「でも……」

「大人になると褒められることがないから、どんな顔していいかわからないんだ。わざわざ見るな、まったく……」

 最後には私の頭をぐちゃぐちゃにする勢いで撫でまくり、諦めた顔して向かい側に座った。さっきよりも、もっと頬が赤くなっている三木先生に、思わず吹き出してしまう。

「ププッ、なんか可愛い」

 くすくす笑っている私に呆れたのか、三木先生は大きな咳払いをして、コーヒーをすすった。教師の威厳がほとんど感じられない態度が、私の笑いをますます誘う。

「僕はお笑い芸人じゃない。いい加減にしろ、笑いすぎだろ」

「ごっ、ごめんなさい。でもその文章、どこかの新聞か雑誌に載るんだよね?」

 当たり前のことを聞いただけなのに、三木先生はしゅんと顔色を曇らせた。

「……ああ、このままってワケじゃないけどな」

「やっぱ直し、入っちゃうんだ。もったいないな」

「しょうがないさ。僕の名前で、これが掲載されるんじゃないんだし」

 え――?

「なんて顔してんだ、アホ面丸出しだぞ」

「だって……どうして?」

「大人には、大人の事情ってものがあるんだ。しょうがないんだよ」

 そう言って笑った三木先生だけど、瞳は正直だよ。どこか、やるせなさそうだもん。

「大人の事情って、そんなのもったいないよ。絶対にもったいないって!」

「すごいの次は、もったいないか。まずは僕よりも、安藤をなんとかしなきゃならないな。ほら、手元に集中しなさい。赤で囲った言葉は――」

 その後、三木先生の講義は続いたけれど私の集中力が続かず、すぐに終わってしまった。

 ――だって、気になってしまったから。『古事記』に挟まれた写真に、今回のことしかり。三木先生の秘密が、気になって仕方なかった。
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