春を待つ君に、優しい嘘を贈る。
(…いつ、だったかな)


あれ、姉に恋人を紹介されたのはいつだっけ?


「ユズハ、着いたぞ」


思い出す間もなく、彼に声を掛けられる。ハッと意識を覚醒させれば、いつの間にか家の前に到着していた。

私は口パクで「ありがとうございました」と告げた。
彼は美しく笑うと、紳士的に助手席のドアを開ける。


「ユズハ。もう二度と、あんな場所に来るなよ」


「(あんな場所…?)」


雲の隙間から差し込んだ月の光が、彼の髪を艶やかに照らす。
それは、一枚の風景画のようにとても綺麗だった。


「あの街は、お前のような人間が来ていい場所ではないからな…」


その理由を尋ねる言葉を唇に乗せても、遠くを見つめている彼には届かない。
だとしても構わない。たとえ声にならなくたって、この唇で伝えたいことがある。

私は彼のコートをそっと引っ張った。それに気づいた彼は、「ん?」と首を傾げる。


「(名前を教えてください)」


「…もう一度」


「(名前を、教えてください)」


「もう少し、ゆっくり」


「(な、ま、え。あなたの、名前は?)」
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