春を待つ君に、優しい嘘を贈る。
彼は笑った。
あの日の約束を叶えよう、とでも言いたげな笑みを浮かべて。


「―――ヘキル」


「(へきる?)」


彼は頷いた。躊躇いがちに手を伸ばすと、指先で私の唇に触れた。


「…お前の声を聞くことは叶わなかったが、再び会うことが出来てよかった」


そう放たれた言葉は、どこか寂しそうで、でも嬉しそうで。背を向けてしまった彼につられるように、反射的に手を伸ばしかけたほどだ。


「(……へきる)」


あの日は、もう二度と会うことはないと言っていたけれど。
また会える気がする。彼が“あんな場所”と言っていた繁華街かもしれないし、どこか別の場所かもしれない。
世界は広いようで、驚くほど狭かったりするから。


「さよなら、ユズハ」


「(…さようなら、ヘキルさん)」


あの日――あの雨の日。貴方に手を差し伸べてよかった。
元気になった姿で会えてよかった。

彼の車が見えなくなった頃、私は家の敷地内へと足を踏み入れた。

もう住み慣れた家の鍵を開け、ドアノブへと手を掛ける。音に気付いた母が玄関で出迎えるはずだ。

そう思いながら、扉を開けた先には―――
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