春を待つ君に、優しい嘘を贈る。
「鞄を取りに行きなさい」


世界が黒に支配された。必死に叫ぶ私を母から庇うように、その人は現れたのだ。
漆黒のコートが風に揺られている。一つに束ねられている髪も、風に乗っていた。


「柚羽さん、鞄を取りに行きなさい。着替えや貴重品も。家に帰らなくてもいいように」


母から守るように私の前に立ったのは紫さんだ。背を向けられている今、彼がどんな表情をしているのかは分からないけれど、その声音から彼が怒っているということは感じ取れる。


「行くよ、古織」


鞄だけでなく、着替えや貴重品も?

呆けたように立ち尽くしている私の手をりとが掴んだ。
私の手を引きながら、大股で家の敷地内へと入っていく。


「あなた、ウチの娘に何を吹き込んだの!?関係ないのに口を挟まないで頂戴!!」


「話を聞くどころか事の真相を知りもしない、知ろうともしない人間に指図をされる筋合いはありません」


「話なんて聞けるわけがないでしょうっ!?声が出ないんだから!子供を育てる大変さを知りもしないあなたに言われたくないわ!!」
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