春を待つ君に、優しい嘘を贈る。
私は震える指先で、彼の目元をそっと拭った。その瞬間、手のひらをぎゅっと掴まれ、彼の口元へと運ばれていった。

手の甲へと落とされたのは、羽のように柔らかな口付け。

この瞬間を嚙み締めるように、何度も何度も落とされる。

再び視線が絡まった時には、私の頬も濡れていた。

何故なのかは分からない。息をするように溢れていたんだ。


「…本当に、忘れてしまったんだね」


白い吐息が、泡沫のように空気に溶け消える。

琥珀色の瞳が陽炎のように揺れるたびに、涙が落ちていく。

最早どちらのものなのか分からない涙が、霖雨のように終わる事無く、いつまでも降り注いでいた。


「柚羽」


愛おしそうに、私の名前を呼んでいる。


「君は忘れてしまったけれど、俺はずっと憶えていたよ」


私は、何を。


「忘れるわけがない。死んでもそんな日は来ない」


何を、忘れているの。


「…ねぇ、柚羽。何か言って…?」


言わなければ、いけないのに。


「     」


私の声は、相も変わらず出てくれなかった。

嗚呼、神様。どうして私の声は出ないのですか?
< 238 / 381 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop