春を待つ君に、優しい嘘を贈る。
「いやぁ、遅くなりました。ちょっと道が混んでて~」


そこにはいつもの諏訪くんが居た。

ふわふわとした笑顔を浮かべながら、赤い傘をくるくると回している。


「…晏吏」


名前を呼ばれた諏訪くんの顔から、雨に溶けるように表情が消えた。

維月さんは口の端をゆっくりと上げると、静かに言葉を紡いだ。


「柚羽を、頼むね」


消えてしまいそうな声だったというのに、忙しない雨音を越えて、私の鼓膜を大きく揺らした。

無意識に呼吸が止まる。

絡まっている視線がぼやけて、彼の顔が見えなくなった。

瞬きをしても、口を開けて酸素を取り込んでも、それらを繰り返しても、彼が見えない。


「幸せになって、柚羽」


なのに、声だけは聞こえる。

砂糖菓子のように甘くて優しい声だけは、鮮明に聞こえるんだ。


「何も思い出さなくていいから。俺のことは忘れたままでいいから」


また、そう言う。

望んで選んだわけじゃないって、言っていたのに。

その言葉通りなら、本当は思い出して欲しいのでしょう。記憶を取り戻してほしいのでしょう。

どうしてあなたはいつも諦め――…いつも…?
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