春を待つ君に、優しい嘘を贈る。
「記憶がないって本当だったんだね!」


どうして彼女はそんなことを言うのか。
私は半年前の事故で記憶喪失に陥ったわけではない。
あの事故で階段から落ちて、声を喪って、犯人のことを憶えていないだけだ。

だって、怖かったんだから。


「あの人のことも、あの人たちのことも、あなたがやってきたことも、全部忘れちゃったんでしょ?それって狡くない?」


あの人って、誰?
あの人たちって、誰?
私がやってきたことって何?

聞きたいことがたくさんあるのに、唇が震えて言葉を乗せられない。

たとえこの唇が動いて、言葉を乗せられたとしても、彼女に伝わるはずはないのだろうけれど。


「忘れたからって、私は許さないんだから」


紗羅さんは私の手の上から足を退けると、にっこりと笑った。

そして、体を起こそうとした私の髪を、紗羅さんの後ろから現れた男が思い切り掴む。


「―――この前の礼をしてやるよ」


地を這うような低い声が私に降りかかる。

私はその声の主を知っている。

転校初日、不慮の事故で紗羅さんが怪我をした時に現れた男だ。
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