春を待つ君に、優しい嘘を贈る。

君がため


微睡む世界に、眩い光が差し込む。

耳に心地よいアルト声が、私を現(うつつ)へと誘っている。

それを阻むように、底なし沼のように深く不可視なものが、私の意識を攫おうとしていた。


「古織」


もう一度、名前を呼ばれた。

起きなければ、と思うのに今にも目を閉じてしまいそう。


「起きてよ、古織」


冷たい手が意識を彷徨わせる私の手を握る。

たぶん、きっと、声の主だ。

雪のように冷たい手。だけど、声は春のように柔い。

あの人じゃない、別の人。

いつだって私の声なき声を聞いてくれた、やさしいひと。


「―――…りと…?」


「……っ」


やっと、この声で呼ぶことが出来た。

私が奏でているというのに、久しすぎて聞き慣れない。


「りと、でしょう?」


左側から、息を飲む音が聞こえた。それと同時に、手を握る力も強まっている。

どんな顔をしているんだろう。怒っているのか、笑っているのか、確かめようと体を動かそうとしたのだけれど、全身が殴られたように痛くて動かせない。

そのせいで、彼の顔が見えなかった。
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