春を待つ君に、優しい嘘を贈る。
何故なのだろう。逢いたいか、としか言っていないのに、この機会を逃したらもう逢えないように聞こえた。

今この瞬間を逃したら、もう二度と逢えない。

言葉でも声でもなく、何かを隠し秘めている瞳が、そう言っているように思えた。


「…あいたい」


「うん」


「あいたい、逢いたいっ…」


「…うん」


連れて行って、という言葉は声にならずに、嗚咽に消された。

けれど、彼はいつだって唇から読み取ってくれていた人だ。


「…いいよ、連れて行く。アンタを、維月さんの元へ」


いつものように、当たり前のように、私の声なき声を拾うと、私の手を取って玄関へと駆けだした。


諏訪くんに気づかれないように部屋を出て、冷たいコンクリートの上をひた走る。その途中には見張りなのか住人なのか分からないが、黒いスーツを身に纏う男が何人もいた。


「…りと、あの人たち、見張り…?」


「そう。やむを得ないから、強行突破するけど」


強行突破って、まるで私たちがいけないことをしているみたいだ。

維月に逢いに行くだけなのに。それが一番許されないことのように思える。
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