春を待つ君に、優しい嘘を贈る。
「(おは、よう…)」


姉に背を向けたまま、そう唇を動かした。

けれど姉は気づいていないだろう。

私の唇の動きを見ようとも、言葉を拾おうとも思わないだろう。


「柚羽、聞いてるのぉ?」


首元にフッと息が掛かる。
甘ったるい声とともに、気持ち悪いくらいの甘い香りを放つ、香水の匂いがした。


「あぁ、ごめんねぇ…声が出ないんだもんねぇ」


姉はふふっと笑った。
怖い笑顔に、背筋がぞわりとした。


「(……あの、)」


突然姉に話しかけられたせいで、反射的にドアノブから手を離してしまった。

そのせいで、リビングに入れない。

いや、今すぐドアを開ければいい話なのだけれど、開けられなかった。


「ごめんねぇ、あたし、読唇術ないの」


手が、指先が、震える。


「分かってるでしょ?…ていうか、イモウトなんだから、知っているでしょ?」


何を、と。唇を動かしかけて、やめた。

私の言葉は、彼女に永遠に届かないのだから。


「柚羽。ねぇ、人の話を聞くときは、人の顔を見ろって言われなかったぁ?」


目も合わせようとしない私に苛立ったのか、姉は小さく舌打ちをした。
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