春を待つ君に、優しい嘘を贈る。

なほあまりある

ただ、ひたすらに走っていた。

何かに囚われたように、憑りつかれたように、引き寄せられるように。


早く、行かなくちゃ。

その想いが胸の中で大きく膨らんで、私を急がせていた。


水溜りを踏んで跳ねてくる泥水も、靴を濡らす冷たい雨のことも忘れて、力強く地を蹴っていた。

どうして、こんなことをしているのか。

そんな理由は、どうでもよかった。


「(―――っ…!!)」


降りしきる雨の中、彼は居た。

真っ暗闇の世界でひとり、静かに存在していた。


老木に身体を預け、力なく腕を放り出し、虚ろな目で遠くを見ている。

口の端から流れている、夥しい血。

目を凝らしてみれば、額や手にも付着していた。


「(酷い……)」


彼の目の前までやって来た私は、手に持っていた傘を彼に差し掛け、しゃがんで鞄の中を漁った。


「………誰だ…?」


「(通りすがりの者です。今、タオルと絆創膏を出しますから…)」


私はパクパクと口を動かしながら、タオルを取り出した。
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