春を待つ君に、優しい嘘を贈る。
彼からしてみれば、終始無言の私は不審人物に映っただろう。


この暗さでは、私の唇の動きなんて見えないだろうから。

声が出ない人間だと分からないだろうから。


「……お前…、」


「(口を閉じてください。口元を拭ったら、絆創膏を貼りたいので…)」


今この瞬間ほど、声を返してほしいと思ったことはない。


声を出すことが出来たのなら。

言葉を音にして、伝えることが出来たのなら。

救急車を呼ぶとか、彼に怪我の具合を聞くとか、出来たのに。


濡れないように傘を差して、血を拭うことしかしてあげられない私は、無力極まりない人間だ。


「(ちょっと待っていてください)」


「………」


ポーチから絆創膏を取り出した私は、彼の口の端に貼りつけた。

ウサギ柄のそれは、男の人が使うには少々恥ずかしいものかもしれないけれど。

何もしないよりは幾分かマシだから。


簡易な手当てを終えた私は、鞄を持ってぺこりと頭を下げ、逃げるようにその場を後にした。

どこの誰なのかなんて知らないし、どうして赴いたのかすら不明確だ。

ただ、冷たい雨に降られてほしくない。その思いでいっぱいだった。
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