春を待つ君に、優しい嘘を贈る。
「(そんな、ことは…)」


そんなことはないはずだ。

だって、半年前のあの事故は、逃亡中の殺人鬼とたまたま歩いていた私が遭遇してしまい、凶器を目の前にした私は咄嗟に逃げ、歩道橋の階段から転落―――と、聞いている。


もし、もしもの話だ。

仮に、あの日に私が誰かを殺していたら、記憶喪失といえど、警察行きは免れないだろう。


「(…ありません)」


口をパクパクとした私を見て、彼女たちは笑った。


「被害者は紗羅さんなのに、いやあねぇ、あの顔」


「嫌なことを忘れて生きるって、いいわね、羨ましい。私も記憶喪失になりたいわ」


違う。違うのに。私はヒトゴロシなんてしてない。

事件の記憶はないけれど、あの日、私は男から逃げていただけだ。

きっと。


「記憶がないんだから、古織さんは何も言えないわね?」


「(っ……!)」


彼女のその言葉が、深く胸に突き刺さった。

そうだ、私は記憶がないんだって。そんなことはないと思ってはいても、もしかしたら、もしかしたらあるのかもしれない。
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