春を待つ君に、優しい嘘を贈る。
あったのかもしれない。


「―――柚羽っ!!!」


鞄が肩からずり落ちる。バタン、と廊下に落ちた音が、私には何かが割れた音のように聞こえた。

鞄を放って、聡美を置いて、私は走り出した。

ひたすらに地を蹴って、誰もいない場所を目指した。


「(っ……、)」


泣くな、私。泣いたら負けだ。彼女たちが言っていたことが本当のことだとは限らないのだから。

記憶が戻れば分かることだ。

真実を知るまでは、泣くことは許されない。


(っ…、思い出して、私っ…)


私の知らない私は、神苑に、紗羅さんに何をしたの?

姉とはいつから仲が悪くなったの?


全部思い出さなきゃ、どうにも出来ないじゃない。

真実を知らなきゃ、何も言い返せないじゃない。


思い出せ、思い出すんだ、私。

そうすれば、苦しいことはなにも―――


「っ…!?」


廊下を走っていたはずの足が、踏み外したかのように急降下する。

その瞬間、世界がぐらりと傾いた。

大きく瞬きをすれば、瞬きとともに弾き出された雫が視界に飛び込む。

この目に映ったのは、銀色の手すり、四角い窓、点字ブロック、階段。


ああ、私は、階段を――――
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