ヒロインの条件
その夜マンションに帰ってからも、私はどうしようかと腕を組んで悩む。私は嘘をつくのが下手だ。とてつもなく下手だという自信がある。だから聞いてもいないのに「聞いた」とは言えないし、そもそも佐伯さんが社長だって知ってるのに「知らない」っていうのもなあ。
ガチャッと扉が開いて、佐伯さんが帰ってきたのが聞こえて、それでやっと夕飯の支度を何もしてないことに気がついて慌てた。
「おかえりなさーい」
自分の部屋から顔を覗かせると、スーツ姿の佐伯さんに声をかけた。佐伯さんのスーツ姿はやっぱり素敵で、雑誌のモデルのように見える。
「ただいま」
ちょっと驚いたような顔をしてからうれしそうに言う。「野中に『おかえり』って言われるの、いいね」
「毎日言いますよ」
挨拶はすべての基本だと教えられてここまで来た。挨拶に始まり挨拶に終わる。
「うれし」
玄関でジャケットを脱いで、自分の腕にかける。ネクタイを緩めながら「飯どうする?」と訊ねた。
「すいません、ぜんぜん考えてなかったです」
ヒロインとは考えられないような、ズボラな自分に落ち込む。すると佐伯さんは「一緒にスーパーでも行く?」と訊ねた、「一階に入ってるから」
「はい!」
「じゃあ、俺着替えてくる」
「私も着替えます!」
自分の部屋に入ると、超特急で着替えをする。考えてみると、二人でお買い物なんて初めてで、なんだか新婚気分だ。
「新婚って!」
自分で突っ込んでしまうが、それも楽しい。私はいつも着ているパーカーを羽織って、玄関でスニーカーを履いて待った。玄関脇にある鏡に自分の顔を移すと、長い髪を両肩に下ろしてニコニコしているのが見えた。
「かわいい?」
「うん、かわいいよ」
突然返事が聞こえて、私は「うわっ」と声をあげた。